映画界の天皇「黒澤明」 衝撃のカミソリ自殺未遂の果ての栄冠

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一切の妥協を許さなかった孤高の“黒澤天皇”の意外な素顔とは……

「影武者」でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞したのは昭和55年(1980)。黒澤明監督70歳にしての快挙だ。「羅生門」「生きる」「七人の侍」など数々のヒット作を放った監督は、映画界の“天皇”と畏怖された。その代表作に多数出演した俳優の仲代達矢さんは回顧する。

「日本映画を世界に旅立たせた先駆者である黒澤さんは、まさに映画作りの天才です。自分の作品には絶対妥協しない厳しさがあるけれど、人を信じる温かな気持ちに満ちている。とてもストレートで純真な子供心を持つ方でした」

「影武者」では武田信玄とその影武者になる泥棒の2役を演じたが、その渦中では勝新太郎さんとの主役交代劇があった。勝さんはリハーサルに参加せず、自分の演技をマネージャーに撮らせるなど無断の言動が高じて監督と軋轢が生じ、降板が決まる。そこで仲代さんに白羽の矢が立った。

「『代役』といわれるけれど、世界中の役者が黒澤映画に出たいと思っている。私は、『代役でも光栄です』と喜んでお引き受けしました」

 初めて経験した黒澤組の現場は、29年公開の「七人の侍」だった。当時、俳優座養成所にいた仲代さんはオーディションを受け、エキストラで出演していた。

 宿場町で農民たちが腕っ節の強い浪人を探すシーン。町をうろつく貧乏浪人の1人である。監督に「君が先頭になって歩け」と言われ、朝9時過ぎの撮影開始から歩き始めたが、「だめ、だめ、カット。何だ、その歩き方は!」と怒鳴られる。数百人の役者やスタッフが待たされる前でひたすらやり直しが続き、ようやく終わったのは午後3時頃だった。

 封切られた映画を観ると、あれほど苦労したシーンは冒頭のわずか数秒。エンドロールに名前も出ていない。「黒澤作品には二度と出るものか」と心底思ったという仲代さんだが、7年後、監督から出演依頼を受けたのが「用心棒」だった。

 この作品では、懐にピストルを忍ばせ、首に赤いマフラーを巻いたやくざを演じる。三船敏郎扮する浪人との決闘シーンが呼び物となり、続く「椿三十郎」には敵方の武士役で出演。クライマックスシーンは脚本でも「これからの2人の決闘はとても筆では書けない」と明かされなかった。

 撮影当日、仲代さんは衣装の胸元に細い管を付けられた。管の先は地面に埋められ、圧搾ボンベに繋がれている。いよいよ本番に臨み、三十郎の刀で斬りつけられた瞬間、凄まじい勢いで真っ赤な血しぶきが噴き出す。時代劇で血を見せることはタブーとされていただけに観客の度肝を抜いた。

 こうして「世界のクロサワ」と名を馳せた黒澤監督の偉業を、映画評論家の白井佳夫氏はこう評する。

「映画とは産業革命以降の新しい芸術です。それ以前は画家が絵を描き、作家が小説を書くような個人芸術だった。それが産業革命以降、特に20世紀になると機械を使って人間が集団で作る芸術が台頭し、映画が出てきた。ところがチャップリンやヴィスコンティなど一群の偉大な監督は、自分の完璧なイメージを実現するため一人で映像を創っている。日本における筆頭が黒澤さんだと思うのです」

 白井氏は早稲田大学の演劇科に在学中、「蜘蛛巣城」に城主の郎党役で出演した経験がある。撮影には望遠レンズ付きの3台のカメラが使われ、1台は主役のクローズアップ、1台は中間サイズから撮り、さらにもう1台が全景を撮る。つまり3方向から被写体を同時に狙うことで、記録映画のスポーツ中継のようなリアルな映像を創り出すのだ。

「ワンシーンを一気に撮るため撮影は延々と続き、演技者は緊張を強いられる。現場で見ていると、助監督やカメラマンもこの偉大な監督がどんなイメージを狙っているのかわからず、呆然としていたものです」

 撮影のセットにも完璧主義が貫かれる。「赤ひげ」のあるシーンで上下大移動撮影をしたいという監督の要望で、巨大な木造ピラミッドが数日かけて作られた。だが、撮影当日、カメラマンと上に登った監督は降りてくるなり「ダメだ、このアングルは」と言い、ピラミッド作りは徒労に終わる。

 さらに、白井氏の印象に強く残るのは療養所の薬品戸棚だ。撮影用であれば、普通、金具が付いていても引出しは開かない。だが、それは全部開き、中はいかにも何年も漢方薬が入っていたように黒く煤けていた。

「『脚本には引出しを抜くシーンがないのに、どうしてここまでやるのか』と小道具係に聞くと、『黒澤さんが撮影の合間にふと引出しを引き抜くかもしれない。その時に中が真っ白な白木だったら、監督の思いが一瞬でシラケてしまう。それをさけるため、完璧に作っています』と言うんです」

■21カ所も切った“事件”の衝撃

 モノクロ映像の集大成とされる「赤ひげ」を経て、黒澤作品は変転する。米国・20世紀FOXとの合作映画「トラ・トラ・トラ!」が難航し、撮影が中断。FOX側は「黒澤監督は精神的な病気になった」と一方的に発表し、監督自身は反論したが、真相は解明されずに断念せざるを得なかった。

 迷走を経て、45年、初のカラー作品「どですかでん」を撮ったが、翌年12月、自宅の風呂場で自殺未遂を起こす。酔った勢いもありカミソリで手や腕など21カ所を切った。マスコミは巨匠の挫折や苦悩を取り沙汰したが、娘の黒澤和子さんは語る。

「映画製作には大変な困難があり、監督はそれを乗り越えていくもの。むしろ父の憂いは日本映画の衰退に重なっていました。映画界を盛り上げようと努力し、責任も感じていた。自分が力及ばないと反省し、純真さゆえの脆さで少しずつ崩れていったのでしょう」

 自殺未遂が発覚した朝、和子さんは、毛布に包まれて、横たわる父の姿を目にした。それでも病院へ見舞いに行くと、本人は元気に振舞い、退院後しばらくすると脚本を書き始めた。

 世間ではいつも怒鳴っている、寡黙で気難しいと思われがちだが、スタッフとふざけたり、冗談を言い合うことが多かったという。

「ナイーブでめそめそと泣き虫なところや、周りを気遣う繊細さもありました。現場の隅に元気のないスタッフがいると心配し、怒鳴り過ぎた後は、照れ臭そうに『今日は悪かったね』と声をかける。具合が悪くなった人がいればお金を持って行ったり、スタッフへの愛情も家族以上でした」

 和子さんが父親に学んだのは「初心忘るべからず」という姿勢。新しい映画を作り始める時は心躍っているのが伝わってくる。クランク・インの日は朝からそわそわと落ち着かなかった。

 和子さんも「夢」から衣装デザインを手がけることに。

「父はよく『仕事は自分から夢中になった方が勝ちだよ』と話していました。必死で頑張るほど面白くなるし、自分も成長する。仕事のクオリティもあがり、もっとやろうという気になると教えられたのです」

 黒澤監督が生涯に撮った作品は30本。晩年、自身に問い続けたのは「どうしたら、人間は幸せになろうとするのか」という命題だった。「影武者」に続き、ライフワークと公言していたのが「乱」である。シェイクスピアの「リア王」を日本の時代劇に翻案した作品で、戦国武将・一文字秀虎役を演じたのが仲代さんだ。

「黒澤さんには『これは最高の反戦映画のつもりで撮ったんだ』と言われました。『人間が欲望を持ち、存在感を示すためには親子でも殺し合いをするだろう。戦争というものは、国と国の対立や人間の欲望がある限り無くならない。地球上の人間は実に愚かである』と言う黒澤さんは、人間を見つめる哲学者でもあったのです」

 息子たちに裏切られた秀虎が狂気に陥り、焼け落ちる城から彷徨(さまよ)い出る場面。「秀虎は狂っているから、足元を見ないでくれ」と監督に指示され、仲代さんは「大丈夫。足の先に目が付いていますから」と答えた。

 いざ火がつくと、城はバチバチと燃え上がり、たちまち白煙と灼熱の風に包まれる。紅蓮の炎の中、一人、念入りに身支度を整えると、ゆっくり足を踏み出し、遥か遠くを見据えて石垣の階段を一歩一歩降りていく。仲代さんが外に出たその直後、城は一気に崩れ落ちた。撮影後、監督は「心配したよ。何かあったのかと思った」と言い、後にスタッフに聞くと「あと3秒、セットの城から出て来るのが遅れたら、撮影を中止して助けに走るところだった」と漏らしたという。

「壮大なる命がけの撮影でもあった」と振り返る仲代さん。黒澤監督はフランスの皇帝ナポレオンを尊敬していたが、仲代さんは画家のピカソに擬(なぞら)える。

「ピカソが青の時代からキュビスムへと次々に作風を変えたように、黒澤さんもたえず先へ先へと挑戦し、新しいものを作っていった。芸術とはそういうものであってほしいと思うのです」

 晩年の誕生日、監督の自宅を訪ねると「仲代君、もう一つ大きいものをやりたいね」と話していた。トルストイの『戦争と平和』を映画にしたいと言い、「その時は頼むね」とほほえむ。それが88歳で逝った監督の遺言になってしまったと洩らす仲代さんは思う。

「今、黒澤さんが生きていたら、日本の状況をどう映画化するのか……」と。

ワイド特集「時代を食らった俗世の『帝王』『女帝』『天皇』」より

週刊新潮 3000号記念別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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