生長の家の政治活動を学生組織が支えた

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赤絨毯に議員を送り出す

 政治活動に乗り出した宗教団体は、創価学会だけではない。生長の家は、吹き荒れる学生運動の嵐に立ち向かい、赤絨毯に議員を送り出して日本の“右翼運動”の一翼を担っていた。

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 昭和5年に谷口雅春が創始した生長の家は、「万教帰一」の思想のもと、神道や仏教をはじめ様々な宗教の教えを取り入れている。戦後、宗教法人格を得た当時100万人弱だった公称信者数は、昭和40年代に急成長。ピークだった50年代には400万人に迫ろうかという勢いだった。

 当時、生長の家が熱心に取り組んだのが愛国運動。生長の家政治連合(生政連)を通じて玉置和郎など自民党議員を選挙時に全面支援し、靖国神社国家護持運動、元号法制化などで自民党に協力した。安保闘争で荒れる大学においては、生長の家学生会全国総連合(生学連)を結成して、「学園正常化」を掲げる右派学生運動をリードした。信者として早稲田大学で生学連活動に携わったのが、現・一水会顧問の鈴木邦男氏だ。

「信者だった母の勧めで、学生時代は教団の“学生道場”で寮生活を送りました。当時の大学は左翼ばかりで右翼は少数派。武器を持たない非暴力運動でしたが、私だけは全学連学生とよく殴り合いをしていました。大学ストを阻止する抗議活動で投石を受けケガ人が出たときは、なぜそんな危険なところに信者を連れて行ったのかと、雅春先生にひどく叱られました」

 この生学連には、現在の日本会議・常任理事の伊藤哲夫氏や事務総長の椛島有三氏など、そうそうたる顔ぶれが名を連ねていた。

 鈴木氏がキャンパス内で左翼学生相手に論争をしていた際、その場に居合わせて「そうだそうだ!」と鈴木氏を援護した青年がいた。後に「楯の会」第2代学生長を務め、市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫とともに割腹自決をすることになる、森田必勝である。

「私は森田も含め、民族派学生を生長の家の練成会(合宿形式の勉強会)に連れて行きました。当時の生長の家では政治的な話題も多く、森田は宗教の話よりそういった話を好んでいました。昭和45年の三島事件に加わった5人のうち、三島を除いた4人は2人が生長の家の信者でした」(同)

 ところが生長の家は、昭和58年に突如、路線を変更。生政連の活動を停止し、政治活動から撤退する。

 かつて生長の家を支持母体とし、後に「参院のドン」とまで言われた村上正邦・元労働大臣が教団の政治活動をこう分析する。

「昭和40~50年代は、生長の家だけではなく立正佼成会、霊友会、PL教団など、複数の教団がこぞって創価学会に対抗するための陣取り合戦を、布教と政治の両面で展開していた。その先頭に立っていた生長の家も、勢いがあり、元号法制化はこうした背景で成立した。政治活動からの撤退は、後に第3代総裁となる谷口雅宣氏の意向で、この頃から陣取り合戦は終わり、各教団とも守りに入った。すると、全教団あげての躍動があって初めて勝てる政治活動からは、どうしても距離を置くようになり、念願だった優生保護法改正は実現できませんでした」

 生長の家はこう回答する。

「活動停止は、一部の幹部の意向によるものではなく、宗教活動が政党や政治活動に隷属する傾向が見られたためです」

 現役閣僚すらも電話一本で呼び出したという谷口雅春は、昭和60年に91歳で死去。教団が輩出した政治家や活動家はさらなる活躍を見せたが、政治熱が冷めた教団は昭和末期に信者数が激減。いまやピーク時の7分の1程度の約55万人にとどまっている。

特集「雨後の筍『新興宗教』裏面史」より

週刊新潮 3000号記念別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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