最後のフィクサー「佐藤茂」川崎定徳社長 表と闇勢力を交通整理

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紙袋に1000万円

「紙袋に、まんじゅうと一緒に入っていたんですよ。持ち上げてみて、まんじゅうだけの重さじゃないとわかった。『領収書はいらない。車代だから持って行ってくれ』と言われてね、『ああそうですか』と持ち帰りましたよ。後で確かめると1000万円入っていた。銀行の帯封は付いておらず、紐で十文字に縛ってあった。ピン札じゃない。おそらく自分のところで用意したもので、彼にとっては端金(はしたがね)だったんじゃないかと思う」

 バブルが弾けた平成4年(1992)のことだった。ある案件で住友銀行に“物言い”を付けたら、最終的に“住銀側”の人間に呼び出されて紙袋を渡された。右翼活動を行っていた団体の幹部はそう述懐する。相手は一見好々爺然とした男で、名前を佐藤茂という。旧川崎財閥の資産管理会社である川崎定徳の社長だったが、政財界と裏の世界を結ぶもう一つの顔があり、“最後のフィクサー”とも呼ばれていた。

 彼の名が初めて表舞台に出たのは、60年の平和相互銀行事件である。そこで、佐藤と強引な収益至上主義で知られた住友銀行との結びつきが明らかになった。

 平和相銀は当時、創業者である小宮山英蔵の死後、小宮山一族による乱脈経営が発覚し、再建をすすめる伊坂重昭(当時監査役)らのグループとの対立が激化していた。英蔵の長男である英一が平和相銀を追放されることになったが、このとき小宮山家が保有する持ち株(全株式の33・5%)を85億円で売却した相手が、佐藤だった。

 伊坂らのグループは、一般的には無名だった佐藤の登場に驚き、その株をなんとか買い戻そうと必死になる。このとき起こったのが、有名な「金屏風疑惑」である。

 まず伊坂が、「佐藤茂と親しい」と自任する八重洲画廊の真部俊生社長から、「私から金屏風を40億円で買ってくれれば、株は買い戻せる」と持ちかけられる。伊坂はその言葉を信じて、時価1億円とも5億円とも言われる“金蒔絵時代行列屏風”を言い値で購入する。ところが株は戻らず、伊坂は40億円を騙し取られた格好になった。

 この交渉の過程で、伊坂は真部社長から「佐藤15、竹下3、伊坂1」と書かれたメモを見せられていたという。伊坂は、株を買い戻すためには当時蔵相だった竹下登と接触する必要があると考えており、竹下側に3億円が渡ると認識して、40億円ものカネを払ったのである。しかし、佐藤も竹下側も、この金屏風疑惑との関与を全面否定し、結局40億円は闇に消えてしまった。その後、伊坂らのグループは経営責任を問われて辞任させられ、平和相銀は61年に住銀に吸収合併されることになる。

 そもそも、佐藤が小宮山家側の保有株を買う資金を用立てたのは、イトマンの子会社であるイトマンファイナンスであり、イトマンの河村良彦社長は、住銀の磯田一郎会長の“子飼いの部下”だった。つまり佐藤は、住銀による平和相銀“乗っ取り作戦”の要を担っていたという構図になる。実際に佐藤自身も、河村社長とは、河村が住友銀行の銀座支店長時代からの付き合いで、「肝胆相照らす仲」だったと明言している。

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