住友銀行の天皇「磯田一郎」会長 弱点を形成したマザーコンプレックス

社会週刊新潮 3000号記念別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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■「繊細な小心者」

 住銀の「暗黒の歴史」が始まったのは62年、磯田が当時の小松康頭取を任期満了の2カ月前に突然解任してからだ、と証言する元住銀幹部もいる。背景にあったのは、磯田が陣頭指揮をとった前年の平和相互銀行の吸収合併に対する、小松頭取の消極的な態度だった。磯田はライバルの富士銀行に負けまいと、あくまでも在京の店舗数にこだわっていたが、既に店舗自体が過飽和の状態で、平和相銀との合併は不良債権を抱えることと同じだと考える役員が多くいた。小松頭取もその一人で、それが磯田の逆鱗に触れたのだ。

「小松頭取は組合の委員長をしていた経歴があり、好ましくないレッテルを貼られ苦労していたときも、磯田さんだけはかばい続けた。頭取は廉直な人で、磯田さんとは師弟関係にあり、慕う人も多かった。その頭取を切った理由は、理屈ではなく、ただ磯田さんの“意のまま”にならなかったから。磯田さんは晩年、老いのためか理性よりも感情が先走るようになり、周りはイエスマンばかりになってしまった」

 と、先の元役員は磯田の“裸の王様”ぶりを指摘する。結果的に住銀はイトマンに融資を続け、歯止めが利かなくなった。イトマン向けの融資総額は5000億円を超えたとも言われる。イトマン事件が世に知られたのは、イトマンの不動産投資による借入金が1兆2000億円に達していると報じた、平成2年5月の日本経済新聞のスクープだ。

 その年の10月7日、住銀は日曜日に異例の記者会見を行い、磯田は会長辞任を表明した。辞任の理由は、住銀の青葉台支店の元支店長が仕手集団「光進」代表の小谷光浩に200億円を超える「浮き貸し」を行った容疑があり、その責任を取るというものだった。

 経済ジャーナリストの福山清人氏はこう語る。

「イトマン事件で追いつめられた磯田は、辞任するきっかけを探していた。青葉台支店事件の発覚は、ちょうどよいタイミングで、磯田自身、“辞任できてホッとした”と、周囲に漏らしたと聞いています。彼はよく言われる人間像とは違っていて、じつは繊細な小心者だったと語る人もいる。それゆえに偉大なバンカーになれたのだし、失脚もそこに起因すると思います」

 安宅産業救済のとき、貴重な東洋陶磁の“安宅コレクション”を大阪市に寄贈し、美術館の建築資金に寄付金の運用利息を充てるなど、独特の錬金術で文化財の散逸を救った磯田の手腕に、今も尊敬の念を抱き続ける元行員がいる。意見の違う部下をリスクの高い部署に飛ばし、失敗したらクビを切るだけ、成果を上げれば褒めて引き立てるなど、あざとい人事を行ったために、今も愛憎半ばする思いを抱き続ける元行員もいる。

 晩年は悲惨の一言だった。追われるようにして住銀を去った3年後の平成5年、磯田は肝硬変のため80歳で死去する。一説には、最期は精神病棟で息を引き取ったとも伝えられる。葬儀は社葬ではなく、西宮の斎場での密葬で、地味なものだった。

 先の元役員はこう述懐する。

「イトマン事件に関しては、磯田さん一人を悪者にする向きが多いが、トップの判断ミスに諫言できなかった頭取以下、役員たちの責任も大きい。幹部の皆にノブレス・オブリージュ(noblesse oblige:地位ある者の義務)が欠如していた。磯田さんは確かに、偉大なバンカーだった。でも、気の毒な人でした」

 住銀の歴代トップの中でも、ひときわ強烈な個性を放った磯田一郎。“天皇”としての輝きが強かっただけに、凋落する姿は余計に哀れだった。

ワイド特集「時代を食らった俗世の『帝王』『女帝』『天皇』」より

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