北方4島返還の好機「ソ連崩壊」を逃した“戦犯政治家”は

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 プーチン大統領が北方4島を返還する素振りは全く感じられなかった。つまり、身も蓋もない言い方をすれば、今回の会談はそもそもが無駄だったことになる。ならば、ここは敢えて後悔してみよう。「今」ではなく「あの時」だったらと。

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北方領土交渉史に残る「if」

 十年一昔なのであれば、北方領土交渉は「六昔」もの歴史を刻んできたことになる。その間、ロシア西部を流れる欧州最長のボルガ川にも似た「大河ドラマ」が展開されたわけだが、そこには幾つかのエポックメーキングな出来事があった。

 1956年の日ソ共同宣言、93年の東京宣言、98年の川奈合意、2001年のイルクーツク声明。こうした動きの中でも、北大名誉教授の木村汎(ひろし)氏は、

「北方領土問題が解決するチャンスは1度だけあったと言えます」

 とした上で、「あの時」を回顧する。

「それはゴルバチョフ政権の末期、91年12月のソ連崩壊の直前でした。当時、ソ連の経済状態は最悪で、ゴルバチョフ大統領は北朝鮮の猛反発を押し切り、韓国との国交正常化に踏み切った。どうしても、韓国マネーが欲しかったからです。したがって、日本もジャパンマネーの力を上手く利用して、北方領土を取り戻せる可能性があったのです」

 国際政治学者で京大名誉教授の中西輝政氏も、

「実際、91年4月にゴルバチョフが来日し、もしかしたら4島が日本に返ってくるのではないかとの機運が高まったのは間違いありません」

 だが、ロシア情勢に詳しいユーラシア21研究所理事長の吹浦忠正氏は、

「確かにソ連崩壊の時期は、ひとつの分岐点でした。しかし、ゴルバチョフサイドからソ連崩壊の予兆を伝えられていたにも拘(かかわ)らず、私もそうでしたが、外務省も眉唾ものとして信じることをせず、交渉の準備を怠ってしまったのです」

 そんななかでも、ゴルバチョフが北方領土で譲る気配を見せたことに、敏感に反応した日本の政治家がいた。当時の自民党幹事長、小沢一郎氏(74)である。機を見るに敏なところまでは良かった。ところが、

「91年の1月と3月、小沢氏は通産省(当時)ルートでソ連と交渉した際に、280億ドルとも言われる金額を提示。露骨に金で島を買いたいという態度を示し、札束でゴルバチョフの頬を叩くようなことをした。ソ連崩壊の危機に直面し、弱体化していたとはいえ、向こうにも面子があります。さすがに、あまりに直截的な日本の交渉姿勢にゴルバチョフもムカッときたのでしょう。話は流れてしまいました」(木村氏)

 国内政局だけでなく、外交の場においても、壊し屋が「本領」を発揮していたのである。

特集「元KGB『プーチン』大統領に期待する方が大間違い! 新聞が書かない『おそロシア首脳会談』7つの不審」より

週刊新潮 2016年12月29日・2017年1月5日新年特大号掲載

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