〈「お言葉」を私はこう聞いた〉何よりも皇室の存続を――工藤美代子(ノンフィクション作家)

社会週刊新潮 2016年8月25日秋風月増大号掲載

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 戦後71年が経過して、象徴というきわめて曖昧な言葉で表されていた天皇のお立場は、そろそろ終焉を迎え、新しい時代が始まるのではないか。今回、天皇がご退位を意識したご発言のヴィデオを繰り返し見ながら、そんな思いを強くした。

天皇陛下と皇后陛下

 はっきりと摂政制度の不十分性にも言及された陛下のお気持ちが、どの辺におありなのかは推測するしかないが、私は常に陛下の傍に寄り添っておられる皇后のお考えも当然含まれていたのではないかと考えた。

 思い起こせば昭和天皇が20歳の若さで摂政宮になられたのは大正10年のことである。しかし、大正9年にはすでに大正天皇について「御発言に障碍起り明晰を欠くこと偶々(たまたま)之あり」とメディアに発表された。

 神経痛が悪化して激痛のため脳症を起こし、健忘症にかかったのだと当時の仕人(つこうど)だった小川金男は自著『宮廷』に書いているが、今日でいう一種の認知症のようなものではなかっただろうか。

 小川の記憶によると、豊明殿でご陪食を賜った後、天皇が退出する際、政府の高官たちは私語を交わしてざわめいていた。その中で、貞明皇后だけ「おひとりが静かに頭を下げて最敬礼をしておいでになった」のもこの時期らしい。

 病身の天皇が政府の要人たちから軽んじられるのを貞明皇后は肌で感じたことだろう。

 だからこそ、自分がしっかりしなければと思い、諸事に采配を振るえば、元老の山縣有朋が「兎に角近来何もかも皇后陛下に申し上ぐる様になり、斯しては或いは将来意外の弊を生ぜずとも限らず甚だ憂慮し居れり」と漏らしたりする事態を招来する。

 前述の通り、裕仁皇太子が無事外遊から帰国してすぐの大正10年11月、皇太子は摂政宮に就任した。

 しかし、それで皇后の負担が軽くなったわけではない。皇后も天皇のご心痛を思いやり、天皇は政治向きのことを見るのが好きなので、形式上だけでも書類を回してくれないかと宮内大臣牧野伸顕に頼んでいる。そこには二人で責務にあたって来た皇后としての矜持も垣間見える。

 天皇の病状の発表による株価の大暴落、その後に続く不況、そして関東大震災と国内では立て続けに不幸が続き、ようやく皇太子の婚儀が行われたのは大正13年1月だった。もちろん天皇は出席できず、披露宴などすべてを取り仕切った皇后についてイギリス大使館の職員は次のように本国に報告した。

「彼らは、ぎこちないといって悪ければ、引っ込み思案で、遠慮がちという印象を与えます。これは皇后の威厳と自信に満ちた物腰とは、まさに強烈なコントラストといえます」

 現代と大正時代を比べるのは無理があるかもしれない。しかし、摂政宮を置くということは、実は皇后に大きな負担を強いる結果となるという点では、同じような気もするのである。

 先の大戦が終わった時から、日本人はそれぞれの皇室観を形成しつつ71年を過ごして来た。だが、現状の皇室典範では将来、解決できない問題が山積していることを、天皇はご自身の声で国民に語り掛けられた。

 では、私たちはそれをどのように受け止めたらよいのか。明治維新以降ずっと日本人の多くが胸に抱いて来たきわめて情緒的な皇室に対する思慕・尊崇の念は、象徴という言葉に隠れたまま時を経て来た。それをそろそろ改革する時期が到来したのではないかと私は受け止めている。

 極論を申せば、天皇を始めとする皇族の方々に期待するのは祭祀や伝統、文化の継承だけで十分なのではないか。すでに天皇皇后両陛下は慰霊、慰問の旅を尽くされたようにお見受けする。私心を捨ててのご聖徳といったことなどは、求めても叶わなくなるかもしれない。それよりも皇室が存続し、少なくとも祭祀だけでも継承していただけたら、それだけで幸せというものではないか。

「特集 天皇陛下『お言葉』を私はかく聞いた!」より