田中角栄逮捕から40年 初めて語られる「ロッキード事件」の発火点――徳本栄一郎(ジャーナリスト)

政治週刊新潮 2016年8月11・18日夏季特大号掲載

田中角栄元首相

 田中角栄元首相の功罪を語る際、戦後最大の疑獄事件「ロッキード事件」は、避けて通れない出来事である。7月27日で、彼が逮捕されてから丸40年が経った。事件の端緒を掴んだのは米上院外交委員会の通称チャーチ委員会。その元調査員が当時の秘話を初めて語る。

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 アイダホ州の州都ボイシはサンフランシスコから飛行機で約一時間半、米国北西部の平野に開けた街である。人口は二〇万人強だが、ニューヨークのような大都市と違って豊かな自然に恵まれ落ち着いた空気が漂う。その郊外の丘の上に緑の芝生に囲まれたモリス・ヒル墓地がある。

 今年六月、その敷地の中心部の一角を訪ねると、初夏の陽光を浴びて一つの墓石が静かに佇んでいた。誰が供えたか分からないが幾つかの小さな花輪が置かれ、墓碑には「FRANK CHURCH 1924‐1984」と刻まれている。ボイシ出身で長年米政界で活動した元上院議員フランク・チャーチの墓である。かつての地元の名士として今も尊敬を集めているのが伝わる。

 そしてこの人物こそ今から四〇年前、日本で戦後最大の疑獄事件となって田中角栄前首相(当時・以下同)の逮捕に発展した「ロッキード事件」、その引き金を引いた男だった。

 一九七六年二月四日、米上院外交委員会の多国籍企業小委員会(フランク・チャーチ委員長、通称チャーチ委員会)は、米航空機メーカーのロッキード社が日本への売り込みで三〇億円以上の秘密工作資金を使っていたと暴露した。

 これにより、全日空にL-1011トライスター機を売り込むため右翼の児玉誉士夫らを通じて政府高官に賄賂が贈られた事、昭和の政商と呼ばれる小佐野賢治も工作に関わった事、ロッキード社の代理店の大手商社丸紅が「ピーナッツ」の暗号で工作資金の領収書を作っていた事が公表された。チャーチ委員会の公聴会でロッキード社のカール・コーチャン副会長は、丸紅経由で約六億円が政府高官に渡ったはずだと証言した。

 一体誰が工作資金を受け取ったか、日本中が蜂の巣をつついた騒ぎになる中で七月二七日、東京地検は田中前首相を逮捕した。容疑は「外国為替及び外国貿易法(外為法)」違反、在職中の犯罪で首相経験者が捕まったのは初めてである。このようにロッキード事件は米国のワシントン、それも上院のチャーチ委員会が発火点だった。

 そのため日本では事件を巡ってミステリーじみた様々な憶測が流れ、米国政府による田中追い落としの陰謀説もある位だ。一体ロッキード事件とは何だったか、あの時ワシントンで何が起きていたか、その深層を最も知るのがフランク・チャーチだった。

 一九二四年にボイシで生まれたチャーチは、スポーツ用品店の経営者で政治に強い関心を持つ父親の影響を受けて育った。地元の高校からスタンフォード大学に進学すると、第二次大戦中には米陸軍の情報部員としてアジアに派遣された。戦後は弁護士資格を取得して、五〇年代に三二歳の若さで上院議員に初当選する。

 その後はベトナム戦争を巡って米政府の東南アジア政策を厳しく批判し、七〇年代には上院情報活動調査特別委員会の委員長として、CIA(中央情報局)の海外要人暗殺計画を暴露して一躍注目を浴びた。だが一九七六年の大統領選挙で民主党の候補者指名争いに敗れると、上院選でも共和党の対抗馬に負けて政界を引退、その後はワシントンで法律事務所を営んだ。これらの経歴を見ると、まさに筋金入りの民主党リベラル派の政治家だったのが分かる。

 残念ながら本人は一九八四年に膵臓癌で亡くなっており、事件について聞くのはもはや不可能だ。その代わり今回、当時の事情をよく知る元部下がインタビューに応じてくれた。彼の名前はジャック・ブラム、ロッキード社の贈賄工作の調査でリーダー的存在だった男である。

■ロ社の深刻な経営危機

 ニューヨーク出身のブラムは現在七五歳、大学卒業後に米議会の調査員となり、チャーチ委員会に関わったのはまだ三〇代半ばであった。その後も国際金融スキャンダルなどを手掛けたベテラン調査員で、ワシントン近郊のレストランで昼食を取りながら彼は四〇年前の思い出を詳細に語ってくれた。

 それによると、チャーチ委員会は石油会社のガルフ石油やエクソン、自動車大手のゼネラル・モーターズなど多国籍企業を調査したが、航空機メーカーで当初注目したのはロッキードでなくノースロップ社の賄賂工作だったと言う。

「ノースロップ社が行った海外での贈賄工作を調べていた頃、一九七五年の六月だったと思うが、そこの社長がじつはうちはロッキード社の手法を真似たと証言してきた。しかも、それまでは米国製戦闘機の売り込みの賄賂を追っていたが、日本では民間航空機L-1011が絡んでると判明したんだ」

 思わぬ展開に委員会は色めき立ち、直ちにロッキード社や米政府機関に情報提供を要請した。フランク・チャーチは生前、故郷にあるボイシ州立大学に個人書簡類を寄贈しているが、その中にチャーチ委員会の大量の内部文書がある。それと、事件当時のフォード政権の機密解除文書やブラムの証言を合わせると、当時の生々しいやり取りが浮かんできた。

 事件発覚半年前の一九七五年八月一五日、チャーチは上院銀行委員会のウィリアム・プロクシマイヤー委員長に協力を求める書簡を送った。

「六月上旬のノースロップ社に関する公聴会でロッキード社の海外での活動が判明し、我々は調査を行ってきた。召喚状を通じて相当の文書を入手したが(中略)これらはロッキード社が融資を求めた際、貴委員会に重要な情報を隠匿したかもしれないという深刻な問題を提起している」

 またチャーチは同月二七日に米輸出入銀行総裁にも書簡を送り、ロッキード社のトライスター機輸出などに関する記録の提供を求めた。

 チャーチがなぜこれら畑違いの組織に接触したか、融資とは何なのか疑問に思う人もいるかもしれないが、この裏には当時のロッキード社の深刻な経営危機があった。

 七〇年代初頭に米政府は緊急融資保証理事会(ELGB)という組織を発足させている。これは破綻の恐れがある大企業への融資保証を行う組織で、航空機の販売不振に苦しむロッキード社も対象の一つだった。そして同社の賄賂工作が発覚した際、真っ先に狼狽し激怒したのがELGBや財務省、それを管轄する上院の銀行委員会であった。

 と言うのは、米国民の血税で経営支援を受けながら、その一方で外国政府高官に賄賂を贈っていた恐れがあったからだ。チャーチの要請を受けたプロクシマイヤー銀行委員長がウィリアム・サイモン財務長官に宛てた書簡からは、その憤激がよく分かる。

「私の見解では、この(賄賂の)慣習をなくす最も有効な方法はロッキード社から支払いを受けた外国関係者と代理人の名前を公表する事である。それが将来の支払い要求への強力な抑止力になると思われる」(一九七五年八月二七日)

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 当然、その中には田中前首相や児玉誉士夫も含まれるのだが、これに対するサイモン財務長官の回答を見てみる。

「ロッキード社の財務は極めて脆弱であり資金繰りも他社に比べて著しく厳しい」「(高官名の)情報公開は会社を経営破綻に追い込む恐れがある」(日付不詳だが九月上旬にかけて作成したと思われる)

 こうして海外での賄賂工作は米政府に知られてしまったが、それはロッキード社を顔面蒼白にさせたようだ。ELGBの関係者が実態確認のためカリフォルニアのロッキード本社を訪れた直後、一九七五年八月下旬には同社の財務担当幹部が自殺している。

■賄賂の仲介者は元戦犯

 だがこの時点では米政府も外国高官名を公表すべきかどうか迷っており、チャーチ委員会の関心ももっぱら欧州や中東での賄賂に集まっていた。ブラムによると流れが急変したのは一九七五年一一月、彼が欧州に出張した頃だったという。同月上旬、ブラムはロッキード社の賄賂工作を調べるため西ドイツやオランダなどを訪れたが、その途中でワシントンから同僚が興奮した様子で知らせてきた。

「本当に重要な賄賂工作は日本で行われていたのが分かったと教えられたんだ。じつはそれまで、チャーチ委員会はロッキード社の文書を入手してたんだが、その多くは日本語で書かれていて中身が分からなかった。米議会調査局に英訳させてみると、それを読んだ委員会のスタッフは大きな衝撃を受けた。まず賄賂の仲介者が児玉誉士夫という元戦犯だった事が判明した。議会図書館や公文書館で児玉に関する東京裁判や尋問記録を手に入れたが、それは驚くべき内容だった。米国企業が元戦犯を雇って重要な同盟国の首相に賄賂工作を行っている。しかも児玉はヤクザとつながり、様々な悪事に手を染めていた。そんな男がどうやって日本の政治機構に入り込めたのか。でもそれまで日本では与党政治家も含めて誰も問題にしようとしなかったんだ」

 今からでは想像しにくいが、日本の戦後史でも児玉誉士夫はかなり奇怪な存在だったと言える。若い頃の児玉は過激な国粋主義青年に過ぎなかったが戦争中、上海に海軍の依頼で児玉機関を作った時から名前を知られ始めた。日本軍の戦争遂行に必要な物資の調達が任務だったが、実際には中国人の資産を略奪同然に集めていた。

 敗戦直後に連合国軍総司令部からA級戦犯に指名され巣鴨拘置所に収容されたが後に釈放、中国から持ち帰った莫大な資産を自由党(自民党の前身)の結党資金に提供した。その後は政界のみならず右翼や暴力団、総会屋に隠然たる力を持つフィクサーとして君臨するが、その力の源泉に人を刺す能力があった。言う事を聞かない相手は裏ルートで集めた情報でスキャンダルを仕掛けて葬り、それでも無理なら物理的に刺す。これには配下の右翼や暴力団が手足となって動き、そのため司直の手も及ばぬアンタッチャブルな存在になっていた。

 児玉にとって不運なのは、米上院の委員会には彼の威嚇も通用しなかった事であった。これが日本の国会なら力の片鱗を見せただけで政治家は震えあがり、調査は即中止されたはずだ。だが米国のチャーチ委員会、しかもその調査スタッフのほとんどは二〇代から三〇代半ばの若さで純粋な理想に燃えていた。彼らにとって日本の右翼の黒幕など恐怖の対象ではなかったようだ。

■歴史を変えたディベート

 では、この時点でチャーチ委員会は賄賂を受け取った者に田中前首相が含まれるのを知っていたのか。その問いにブラムは大きく頷きながら続けた。

「各国で多くの事実を発見したが、問題は日本ほどの重大さを持つ国はなかった事だった。何しろ第三世界ではなく日本政府の最高レベルに賄賂が渡されていたのだから」

 だがロッキード社もただ手を拱(こまぬ)いているだけではなかった。このままでは早晩、外国政府高官名が公表され会社の経営に致命的な打撃を与えかねず、そのため彼らは事件を抑えようと米政界の大物に協力を要請する事にした。当時のフォード政権の外交を一手に担ったヘンリー・キッシンジャー国務長官であった。

 一九七五年一一月一九日、ロッキード社の顧問弁護士のロジャース・アンド・ウェルズ法律事務所からキッシンジャーに一通の書簡が送られた。賄賂を受け取った高官名が表に出れば、友好国の指導者を一方的に中傷する事になると訴えてこう結んだ。

「一部の情報は極めてデリケートな内容を含むため、国務長官またはそれに準ずる人間が問題の深刻さを確認したい場合、ロッキード社は口頭で説明したいと望んでいます」

 その九日後にキッシンジャーは司法長官に書簡を送り、高官名の公表は外交関係を損ねるとして資料公開を控えるよう要請している。そしてロッキード社の攻勢はチャーチ委員会にも向けられたとブラムは明かす。

「私は同席しなかったが、ある日、ロジャース・アンド・ウェルズ法律事務所の弁護士たちがチャーチ委員長に面会にやって来た。そこで彼らは賄賂工作の調査を中東地域に限定するように要請したのだ」

 それまでの調査でも、ノースロップ社が航空機売り込みに中東で賄賂工作をしたのは明らかになっていた。国際的な武器商人が暗躍して莫大な手数料を手にしており、そこにロッキード社の事例が加わっても何ら目新しくはない。日本や欧州の高官を守るための一種の取引だが、これにチャーチ委員会はどう応じたか。

「正直言って、あの時は我々の間でも意見が分かれた。委員会の首席法律顧問だったジェリー・レビンソンは要請を受けるべきだという立場だったが私は反対した。日本への賄賂工作は、暗号名『ピーナッツ』の領収書など証拠が揃い過ぎていて見逃すには大き過ぎた。レビンソンと私でディベートを行い、結局チャーチ委員長が『よし、やろう』と言って支持してくれた」

 そして翌年二月にロッキード事件が発覚して田中前首相の逮捕につながるのは歴史が示す通りだが、もしこのディベートでブラムが負けていたらどうなっただろう。田中や児玉、丸紅の名前は登場せずに事件は闇に葬られていたはずだ。その意味で一九七五年の冬、ワシントンの上院議員会館の一室で行われたディベートは日本の歴史を変えてしまったと言える。

 なぜチャーチはブラムに軍配を上げたか、本人が亡くなっている以上、聞きようもないが、ボイシ州立大学が所蔵する彼の軍歴証明書を見た時、意外な事実を確認できた。若き日のチャーチは戦争終結を挟んで米陸軍情報部員として中国に赴き、しかも児玉機関が暗躍した上海に駐在していたのだ。祖国の家族に宛てた手紙で彼は中国人の悲惨な暮らしと欧米の植民地主義、アジアに進出した米国の大企業への疑問に触れている。

 彼らが互いに面識があったとは思わないが、こうして見るとロッキード事件の源流は戦争末期の中国で始まっていたのかもしれない。中国で略奪した莫大な資産でフィクサーとなりロッキード社の代理人を務めた児玉誉士夫、そして米国でリベラル派の旗手として多国籍企業を批判してきたフランク・チャーチ、戦後に全く異なる道を歩んだ二人の人生が交錯したのは運命の皮肉にも映る。

■憤懣やる方なし

 では首相経験者として史上初めて逮捕された田中角栄はあの事件をどう見ていたか。そもそもロッキード社と児玉の関係は一九五〇年代後半、防衛庁の第一次FX(主力戦闘機選定)にまで溯る。その過程では首相クラスも含む自民党の有力政治家の関与が取り沙汰されたが、結局うやむやになってしまった。

 この問いを考える上で貴重な示唆を与える二つの資料があるが、その一つは神楽坂の芸者で田中の愛人だった辻和子の回顧録だ。それによると、事件発覚後も田中は「総理で捕まった例はない」と語っていたという。

「同じ自民党内でも考え方が異なる三木武夫(みきたけお)先生が政権の座についていたとはいえ、まさか自分を逮捕させるはずがないと思っていたようです。造船疑獄(ぎごく)事件のときに、幹事長だった佐藤栄作先生が逮捕寸前まで行きながら、法務大臣の指揮権発動によって回避されたという前例もあります。首相まで務めたおれが逮捕されるはずがないと、高(たか)をくくっていたのです」(『熱情』)

 造船疑獄とは、戦後間もない吉田内閣の時、造船・海運会社が与党自由党の政治家に賄賂を贈っていた事件だ。だが検察が捜査を開始すると、犬養健法務大臣が指揮権を発動して真相は明らかにされなかった。

 もう一つは一九七二年六月一二日、田中が佐藤栄作首相の後継の座を狙ってライバルの福田赳夫と熾烈な戦いをしていた頃、来日したキッシンジャー米大統領補佐官との会談記録だ。機密解除された米政府のファイルによると、ここで田中は開口一番、「私は故吉田茂の弟子だった幣原(喜重郎)首相の下で政治家としてスタートを切り、今に至るまで吉田学校の優等生として活動してきました」と胸を張っている。

 初めてこのファイルを読んだ時、どうしてわざわざこんな事を強調するのかと訝ったが、田中を知る政界や財界の関係者によると、じつはこれは彼が好んで使っていた言い回しらしい。

 戦後の日本の政界は、吉田茂首相と彼の薫陶を受けたエリート政治家が「吉田学校」と呼ばれる保守本流の勢力を作ってきた。それを官界や財界が取り巻いて閨閥も通じたエスタブリッシュメントを形成し、そこへ雪深い新潟の極貧農家に生まれた田中が首相の座に上り詰めた。

 その時、彼はようやく自分も保守本流のエスタブリッシュメント入りしたと確信したはずだ。いざとなれば司直の手からも守られ、当然、自分も安全と信じていたが、それを裏切られた時の怒り、悲しみ、屈辱感は察するに余りある。保釈された直後の田中の様子を辻はこう語っている。

「わたしは膝(ひざ)をついて座り、おとうさんを見上げていました。いま思うと、あのときのおとうさんの様子からは、『憤懣(ふんまん)やる方なし』という言葉が浮かんできます。それまでの総理経験者が味わったことのない屈辱的(くつじょくてき)な経験をして、さだめし悔(くや)しかったんだろうと思います。あのときのおとうさんが、それまでで一番かわいそうなおとうさんでした」(前掲書)

 ワシントンが発火点となったロッキード事件は、児玉誉士夫や多国籍企業の暗躍、首相の犯罪だけでなく、戦後の日本に君臨した保守本流エスタブリッシュメントのいびつさをも露わにした。まさに戦後最大の疑獄と言うに相応しい出来事であった。

「特別読物 田中角栄逮捕から40年 初めて語られる『ロッキード事件』の発火点――徳本栄一郎(ジャーナリスト)」より

徳本栄一郎(とくもとえいいちろう)
1963年佐賀県生まれ。英国ロイター通信特派員を経て、ジャーナリストとして活躍。国際政治・経済を主なテーマに取材活動を続けている。ノンフィクションの著書は『角栄失脚 歪められた真実』(光文社)、『1945 日本占領』(新潮社)等多数、小説に『臨界』(新潮社)がある。