「ピカソより普通にラッセンが好き」は正しい!

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「♪ピカソより~、普通に~、ラッセンが好き!」

 満面の作り笑顔を浮かべ、半端なロン毛をかき上げながらそう叫ぶピン芸人・永野が大受けである。このネタが何となく世間に知られるようになったのは昨年の半ばくらいなので、最近では定番化して「つかみ」的に披露されることが多いようだ。

 ともあれ、このネタが受けているということは、「ピカソより普通にラッセンが好き」という感覚が、人々がある程度共感できるものだ、ということの証だろう。

 その背景には、「ラッセンよりピカソの方が偉いってことになってるけど、よく分からない」「ピカソの絵って本当にうまいの?」「きれいなの?」「ぶっちゃけ、ラッセンみたいに細かくちゃんと描いている絵の方がうまくね?」といった、一般人の本音があることは想像できる。

永野オフィシャルブログより

■ピカソの絵は美しくない

 ピカソの絵は本当に美しいのか。どうして「あんな絵」に高い値段がつくのか。そうした疑問にストレートに応えてくれる本がある。タイトルはそのものずばり、『ピカソは本当に偉いのか?』(西岡文彦著)である。

 この本の中で、多摩美術大学教授の著者は、「伝統的な審美眼の観点から言えば、ピカソの絵は美しくない」と言い切っている。

 ピカソに限らず、前衛的な表現には、その衝撃によって人々の覚醒をうながし、社会や芸術のありようを再検討するように仕向ける意図が含まれている。ピカソは意図的に伝統的な審美眼を挑発し、否定しようとした。だから、わざと「美しい」と思えない絵を描いた。普通の人がピカソの絵を見て「美しい」と思えないのは当然なのだ。

 西岡氏の表現によれば、ピカソの実験的な絵とは、美術の世界が従来の「美」の基準を否定した中で、美術界での評価のみを求めて描かれた「学術雑誌の論文みたいなもの」なのである。

 ただし、ピカソの絵は下手なのではない。むしろ、西岡氏によると「超絶的にうまい」。

 父親に施された英才教育もあって、ピカソは幼少期からすでにデッサンの達人だった。逆に言えば、暴力的なまでの彼の前衛性は、いくら乱暴に描こうとしてもつきまとって離れなかった「基礎力の呪縛」から逃れようとした結果とも言えるのだ。

「超絶的にうまい」絵描きだからこそ、「うまい絵」の文法を完璧に理解した上で、みんなが顔をしかめるような「美しくない絵」をわざと描けたのである。

■「通貨」になったピカソの絵

 では、なぜそんな「美しくない絵」が高い評価を得て、高い値段をつけられることになるのか。

 2010年にクリスティーズのオークションにかけられた『ヌード、観葉植物と胸像』の落札価格は、邦貨でなんと100億円だった。わずか160㎝×130㎝のキャンバスの絵が、である。

 1973年に91歳で生涯を閉じた時、手元に残した7万点の作品を含めたピカソの遺産の評価額は、7500億円に上ったとも言われる。

 実際には、美術作品の価格は需要と供給で決まり、その芸術的価値とは直接の関係はない。そしてピカソは、20世紀初頭の絵画ビジネスのバブル的成長の時期に、絶妙のタイミングで登場した画家だった。

 この時期は、新興国のアメリカが絵画ビジネスの大市場として登場した時期と重なる。パリ画壇でデビューし、その前衛性で名を馳せたピカソは、アメリカ市場にぴったりの画家だった。ピカソは、その絵画ビジネスのロジックを完璧に理解し、利用しつくしたのである。

 新しい市場は常に新しいスターを求める。その最初のスターの「スターぶり」が、新しい市場そのものの発展の記号として作用する。

 そして、スターを生んだ業界は、投下したコストを回収し、自分たちの業界を発展させるべく、その最初のスターを何度でも「再発見」する。日本のプロ野球界で、成績の点で言えば5番手6番手に過ぎない長嶋茂雄がいつまでも「ミスタープロ野球」扱いされるのも、このロジックによる。ピカソは前衛芸術の市場における「長嶋茂雄」なのである。

 加えて、絵画ほど「顕示的消費」に向いている商品はない。美術品という「見せびらかし」に最も適した商品の中でも、ピカソほど圧倒的なブランド力を持つものはない。そのブランド力によって、ピカソは誰もが安心して購入・転売・投資できる「通貨」となったのである。

 ごく普通の美意識を持つ人が、ピカソの前衛的な作品を見て「美しい」と思えず、「ラッセンの方が好き」と思うのは、ある意味でごく自然なことだ。永野のギャグは、意外と鋭いところを突いているのである。

デイリー新潮編集部

2016年7月9日掲載

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