パン屋のセルフサービスを「発明」したアンデルセン――いま、広島が熱い!(5)

社会2016年6月24日掲載

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 アンデルセングループのことは、知っている人も多いだろう。

 2015年4月時点で、直営店が全国に118店、海外に21店、「リトルマーメイド」などのFC(フランチャイズ・チェーン)店が海外を含め372店ある。持ち株会社の「アンデルセン・パン生活文化研究所」(広島市)の傘下に16のグループ会社が連なり、正社員数は1800人、15年3月期のグループ売上高は676億円にのぼる。

 店内を回遊し、トングで食べたいパンを挟んでトレイ(盆)に載せ、レジに持って行って代金を支払う。今では全国で普通に見かける「焼きたてパン屋さん」のセルフサービス方式だが、このスタイルを最初に確立したのは、戦後焼け跡の広島から発祥したこの会社である。

■「苦肉の策」で生まれたセルフサービス方式

 新潮新書『広島はすごい』によると、「セルフサービス方式」は、ある種「苦肉の策」の結果生まれたようだ。

 1967年、順調に成長を続けていたアンデルセンは、広島市中心部の本通り商店街にある旧帝国銀行広島支店の建物を購入した。1925年2月に完成したルネサンス様式の壮麗な建物。爆心地から360メートルの距離にあったが、天井や屋根のかなりの部分が抜け落ちたものの倒壊は免れ、備え付けられていた米モスラー社製の大金庫は劫火に耐えて現金や帳簿類を守った。これは後に「原爆に耐えた金庫」として、米国でも話題になった。

 終戦後、この建物は大がかりな修復工事でよみがえるが、入居者は次々と入れ替わっていた。何しろ使い勝手が悪い。ただ、被爆に耐えた歴史的価値の高い建物であることは確かだ。アンデルセン創業者の高木俊介・彬子夫妻は、この建物を新店舗として活用することにした。

アンデルセンの店舗になった旧帝銀広島支店ビル。現在は改装中。

 欧州を視察した夫妻は、ローマで見たある店舗に注目した。施工から200~300年は経った石造りの建物で、1階ではパンやアイスクリームを売るほか、コーヒーやワインの立ち飲みができるバースペースがあり、2階はレストランになっていた。古い建物の中で斬新な商売が行われ、実際に賑わっている。

 夫妻が購入した旧帝銀支店ビルも、2階建ての古い建造物。「原爆に耐えた建物をいかして素人が一から商売を始めて継続していくことが、広島の人に対するメッセージになる」と考えた夫妻は、このローマの店と同じコンセプトの店を作ることにした。

 店舗の改装を夫から任された彬子は、ローマの店で見たアイスクリームのショーケースが気に入り、これを2台買い求めた。

 ところが、改装中だった旧帝銀支店ビル内の柱の1つが邪魔をして、予定していたスペースにショーケースが収まらないことが判明する。

 結局、パンの売り場にショーケースを置くことを断念して洋菓子売り場に回し、パンは木製のラック(棚)に載せ、客が食べたいものをトレイに取ってレジで精算する方式を採用することにした。建物の使い勝手の悪さからひねり出した苦肉の策だったが、これが評判を呼び、結果的に焼きたてパン屋のセルフサービス方式として、全国に普及していったのである。

■職人肌の経営者

 前回の記事で触れたカルビーの創業者、松尾孝もそうだが、アンデルセンの創業者である高木俊介も「職人肌」の経営者だった。

 高木は、7年がかりでモノにした「冷凍パン生地」の特許(1972年)を、惜しげもなく無償で公開している。その理由を高木は「焼きたてパンの市場を育てるため」と「パン職人の負担を減らすため」と答えている。

 この技術を使えば、パン生地を工場で集中生産して冷凍し、店ではそれを解凍して発酵させ、焼くだけで済む。職人の負担が大幅に減ると共に、「焼きたてパン屋」の多店舗展開も可能になったのだ。

「市場を育てよう」という大局観と、パン職人に対する仲間意識。「楽して儲けよう」という発想はみじんもない。その根幹には、「いいものを広く提供したい」という、戦後の焼け跡闇市時代に培われた、職人肌の経営者の強い思いがあった。

デイリー新潮編集部