高倉健の妹が明かす、養女への不信感…“口をつぐんでいただきたい”と告げられ

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 映画俳優として初めて文化勲章を受けた高倉健(本名・小田剛一)が鬼籍に入ったのは、2014年11月10日のことだ。享年83。この間、元女優の養女が自ら存在を明かすなど、耳目を集め続けた。そしてついに、実の妹・森敏子さんが晩年の真実を語ったのである。

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 句集『薔薇枕』をものす森敏子さん(81)は、他ならぬ高倉健の実妹である。1931年、「川筋」と呼ばれる炭鉱町、福岡県中間市に生まれた健さんは、男2人、女2人の4人きょうだいの次男。87年に兄が、2007年にはすぐ下の妹も物故している。すなわち、きょうだいで唯一残されたのが福岡県在住の敏子さんだった。しかしながら、彼女は健さんの亡骸に対面することはもちろん、遺骨にじっくり寄り添うこともできないまま。まずは敏子さんご当人に、「巨星墜つ」の直後から振り返ってもらおう。

「亡くなったのは14年の11月10日ですが、それを知ったのは12日のこと。私はこの日、福岡県内の病院でベッドの上にいました。白内障の手術を受けるためです。そんな朝に、息子から電話が入り、『伯父が亡くなったという情報がある』と聞かされました。兄には連絡がつかないので、兄の従弟でもある高倉プロの専務に連絡し、『何かあった? 兄は元気なの?』と訊いたところ、要領を得ません。時間が経ち、この日夜遅く、専務から『兄の死』を告げられたんです。

 後でわかったことですが、この12日というのは葬儀の日で、午後1時から始まった私の手術と火葬の時間がだいたい重なっている。不思議なものです。

 兄と私は仲がとてもよく、喧嘩もせず、何でも話してきた間柄です。『何かあればファクスくれ』と言われていたし、事実そうしていました。するとすぐに電話があるようなマメな人。ファクスは世田谷の自宅へ、手紙の場合には赤坂の高倉プロへといった取り決めがありました。

 患っていた白内障のことも前から伝えていまして、兄からは、『自分も白内障の手術をやっている。ある程度の年齢に達すればだいたいなる病気。簡単だから手術しろ』って言われました。腕の良い医師のいる病院を訪ねたら2カ月待ちだったんですが、『とにかく予約しておけ』と。それでそうしたのが、12日だったというわけです。

 電話の第一声というものはいつも、『おーい、元気か』。それで、『体重何キロあるか?』『ちょっと重いな、歩いた方がいいな。お前の身長だったら1キロ落とせ』……。そんなやりとりが続く。

 あるとき私が、歳を取るのは嫌だと愚痴ったことがあります。鏡を見たら、シワもシミもいっぱい。でも兄は、『歳取るってそういうことだよ。死を絶対恐れるな』と言うんです。そんなものかと思っていると、すぐに、シューって蒸気が出る、そう、保湿機が届きましてね。あれこれと、とても気にかけてくれていたんです。

 例えばヨーグルトひとつとっても、『いろいろ試したけどこれがいい。北九州だとここで売っている』と、フジッコのカスピ海ヨーグルトを勧めてくる。水も、夏になるとスポーツドリンクがケースで届く。とにかく健康にすごく気を遣ってくれて、密なやりとりをしてきました。

■「降りて来い!」

 最後に電話で話したのは……10月頭くらいでしたでしょうか。変なことを言うんですよ。『仏は上から見てるからな』って。『必ず見てる』と3回繰り返しました。どういう気持ちで言っているのか見当がつかない私に、くすっと笑ってしみじみと、『お前幸せな女やな』とも。兄自身は悪性(リンパ腫)で死期がそう遠くないのを悟っていて、それを私に告げるわけにはいかないけど、匂わせたかったんでしょうか。いまでは、『死んでも上から見守ってるぞ』っていう意味だったと理解しています。実は、この電話以降、普段通りに手紙もファクスも送り、留守電にもメッセージを入れましたが、折り返しがありませんでした。おかしいね、と皆で言い合っていたんです。

 亡くなってから本当にあれこれと起こるもので、私はいつも空を見て、『上から見てるだけじゃなくて降りて来い!』って呟いています。

 私は息子には常々言ってきたんです。おかしな話だけど、兄は身内とかじゃなくて、日本の、世界の人。だから私たちが足を引っ張ってはいけない、兄の名前を出したりしたら絶対いかん、と。私が東京へ出向いても電話はしますが、会ったりはしませんでした。でも、いま考えればそれも悪かったですね。やっぱり、世田谷の家へ行くようにしていれば良かった。あそこへは火事になったときにしか行ったことがありません。

 私が『養女』の存在を知ったのは、(亡くなった半月後の)11月27日。専務が、『いままで黙ってた。女房にも言えんかった』と話し始めたのがきっかけです。慌てて東京行きの切符を取り、翌日に上京したんです」

 悪性リンパ腫で入院していた事実も、危篤状態であることも、まして、夫婦同然に暮らす養女がいたことも知らされていなかった敏子さん。その後、養女側との間で代理人を通じた話し合いが始まるが、養女の排斥主義を目の当りにする。結果、頓挫するその中身については後述するとして、健さんが亡くなる前後の「東京における動向」について触れておかねばなるまい。

■「すぐにでも荼毘に」

 健さんは11月1日から、慶応大学病院3号館6階の「特室」に入院していた。当初は検査入院だったものが容体は急変、抜き差しならぬものとなる。亡くなる前日、つまり9日夜、養女から健さんの秘書へ、「高倉がライチを食べたいと言っている、買ってきて」と連絡があった。名優のために長らく精励恪勤してきた秘書が初めて耳にする、「高倉健はライチ好き」。とはいえ、あちこち探した結果、東京ミッドタウンで缶詰を見つけて持参。“シュー、シュー”という音が病室から漏れ聞こえ、「息苦しいって言うから加湿器をつけている」と養女は言ったが、部屋の中へ入ることは許されなかった。そして10日午前3時49分、永眠。ここからは、敏子さんと行動を共にし、事情に精通する姪の攝子(せつこ)さんが打ち明ける。

「遺体は霊安室へ入れず、冷房を使って病室を冷やし続けたと言います。手配された葬儀社の方が見えた際に養女はどういうわけか、『すぐにでも荼毘(だび)に付してほしい』と申し出たそうですが、受け入れられなかった。この日、だいぶ夜に近づいてから、遺体を世田谷の高倉邸へ運び出すため、葬儀社から2人がやってくる。目立ってはいけないからか、普通のバンで。遺体は布にくるんで帰ったと聞いています。

 自宅はA棟が伯父、B棟が養女の住まい。養女は、『私の部屋に簡易ベッドがあるから』と、それをA棟のリビングへ持ち込み、伯父を横たわらせた。葬儀社の方が祭壇の設営を始めるのですが、『要らない』と養女は言い、蝋燭(ろうそく)は『危ないから』、お線香は『煙がきらい』と突っぱねた。棺については、同席していた専務が『桐のものがいい』と主張したものの、『一番質素なものがいい』と却下。そこでもクーラーをがんがん効かせたようで、リビングにいた専務は、唇が紫になるほど寒くて震えたので、B棟へ移ったほどだったと言います」

 お線香すらあげられなかった異常なお通夜の2日後、先に触れた密葬が、渋谷区の代々幡斎場で執り行なわれた。東映の岡田裕介会長を始めとする各界の重鎮5人が出席。もっとも、その場で身内と呼べるのは、血のつながらない養女ひとりだけだった。攝子さんが続ける。

「参列者が集まったところで、『養女の小田貴でございます』と挨拶が始まり、看病中のエピソードなどが披露されました。途中、写真が用意されていないことをチクッと言う人もいたようです。そして遺骨については各人に、『どうぞお持ち帰りください』と提案しています。

 密葬を済ませた後、養女は、鹿児島のスポンサーを『ご説明』のために訪問。そして18日、正式に死去を公表すると、取材陣が世田谷の家を取り囲むようになった。だから、『入院するわ』と。当然ながら、病気じゃないのに入院できないよと慶応病院の主治医に言われたものの、結局、『疲労と貧血』ということで個室へ入りました。それでも病院食しか出ないのが不満だったのか、すぐに退院しています。

 次に養女はホテルオークラへ移るのですが、その前に荷物をまとめるために一旦、世田谷の家へ戻った。そこには(前出の)秘書もやってきて、『もう1度、会わせてください』と伝えたんですが、養女はこう言ったそうです。『もう会えないわ。遺骨は金庫に入れてるから』」

■“あら、お兄さん”

 それから、弁護士を通じてのやり取りが始まった。再び、敏子さんが語る。

「先方からは、没後の処置について、すべて兄の意向に従ったまでだということでした。密葬で済ませ、戒名は不要、四十九日をするつもりはなく、鎌倉霊園の墓地にも入らず、散骨することになる……。すべて兄本人の考えだと。さらに、兄との間で養子縁組した経緯についても説明を受けました。映画『あなたへ』(12年公開)の撮影中に、共演した大滝秀治さんが養子縁組しているのを聞いて、どういうものなのかと弁護士に相談してきた。それから1年ぐらい経ち、『先生、養子縁組をしました』と報告があったそうです」

 2人は、13年5月に養子縁組をしている。さらに養女側は、こんな風にも主張したという。

「私、どうしても聞いてほしいので、細かくその中身を示すことにします。

〈自分は高倉が病気になってからほとんど寝ていない。高倉健とは、生涯現役で、撮影現場以外の姿を見せてはならない存在である。小田剛一である前に、高倉健であった。自分はそれを守るためにたった1人で、発病以来、ずっと奮闘してきた。いや、高倉と交際して以来、ずっとそうだった。そしてそれをやり遂げた〉

 おまけに、こう続きます。

〈亡くなってからも守るべきものとは、高倉のプライバシーである。避けなければいけないのは、養女という存在をスキャンダラスに暴露されることである。親族との確執があるとか、交際を興味本位に捉えられるのを避けなければならない。にもかかわらず、すでにそのような動きがある〉

〈高倉健を守るために自分は孤軍奮闘していることを理解してほしい。親族サイドから、おかしな話がマスコミに出回らないように口をつぐんでいただきたい。『高倉健』を守るために、親族の皆様とも力を合わせたい気持ちだ〉」

 そう訴えていた養女が、「週刊文春」誌上において、自身の存在を明かすのはこの直後。14年の年末である。

「実際、『口をつぐんで』という件には言葉を失いました。そして、〈今後、どうしてもということであれば、面談する機会を設けてもいい。ただ、体力的にきついので1時間程度で〉とも言ってきた。『会ってやる』というような態度がありありと出ていたので、私は『必要なし』と蹴ったんです。

 先ほど話に出た鎌倉霊園には、チーちゃん(71年に離婚した江利チエミ)との間の水子が祀られています。お墓を買ったときに、『すごくいいところにあるから。鎌倉来たら連れて行く』と電話がありました。折に触れて線香をあげに出向いていましたし、自分自身も亡くなればそこへ入るつもりで、知人と墓石を見て回っていたほど。そうやってしてきた人が、散骨なんて言うわけがありませんよ。

 いまもまだ、兄が亡くなった時間帯に目が醒めるような日が続いています。ふっと現れて、“あら、お兄さん”と声を掛けても、いつの間にか姿がなくなっている。娘に伝えたら、『正』の字をつけて数えればと言われたのでそうしました。一昨日も出た、昨日も出た。それで、113日目。連夜見かけていた兄がついに振り返り、話したんです。内容ですか?……胸の中に大事にしまっておきたいと思います。

 とにかく、毎朝お経をあげて拝んでいます。初盆も彼岸も月命日も、戒名はないですが、本名で供養してきた日々です」

 敏子さんは、こんな風に詠む。

〈漢(おとこ)なら手折り逝かんや紅椿〉。没後1年半。季節を巡っても、敬慕する兄・小田剛一を思わぬ日はないのである。

「特集 文化勲章俳優『高倉健』実の妹が語った養女への不信感」より

週刊新潮 2016年5月19日菖蒲月増大号掲載

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