メディアが煽る「夢の薬」の落とし穴――里見清一(臨床医)〈医学の勝利が国家を亡ぼす 第2回〉

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 前回でも取り上げた末期がんの完治もありうるという「夢の薬」を、各メディアが称賛し、「乗り遅れるな」と煽っている。だが、年間3500万円かかる薬を誰もが使えば、医療全体が破綻する。里見清一氏は「文藝春秋」批判を通して、われわれに意識改革を迫る。

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「文藝春秋」の甘い認識を里見氏が糾す

「国が亡ぶ」。いささか大げさな、いわゆる「盛った」表現に聞こえるかもしれないが、里見清一氏は繰り返しそう説き、真顔で憂慮する。原因は薬である。今、そこかしこで讃えられている、がんを消す“夢の薬”が、むしろ、われわれの生存を脅かすことになりかねないというのである。

 そのことを、前回では作家の曽野綾子氏との対談で示したが、どんな薬なのか、あらためて振り返っておきたい。

 その薬は、京都大学客員教授の本庶佑(ほんじょたすく)氏のチームが発見したメカニズムをもとに、小野薬品工業が開発した日本発のがん治療薬で、商品名は「オプジーボ」、一般名は「ニボルマブ」という。2014年7月に、皮膚がんの一種である黒色腫(メラノーマ)の治療薬として承認され、続いて昨年12月には、「切除不能な進行・再発の非小細胞肺がん」の治療に使うことも承認された。

 ニボルマブが画期的だとされる理由の一つは、作用の仕方にある。これまでの抗がん剤が、がん細胞の増殖を抑えて死滅させるのに対し、「免疫チェックポイント阻害剤」と呼ばれるニボルマブは、患者の免疫力を利用してがんを抑えるという。

 免疫細胞には、がん細胞などの異物を攻撃するアクセルと、攻撃を止めるブレーキが備わっている。がん細胞は免疫から攻撃されないように、そのブレーキを偽装するのだが、ニボルマブはブレーキを解除し、免疫の攻撃力を取り戻させてくれるのである。有効な患者には年単位で効果が持続し、治癒もありうるという。まさに“夢の薬”たるゆえんだ。

 では、なぜそれによって「国が亡ぶ」のかというと、薬価が高すぎるのである。肺がん患者がニボルマブを使うと年間3500万円かかるという。年間13万人がかかる肺がんで、仮に5万人の患者が1年間使えば1兆7500億円。日本の医療費は年間約40兆円で、そのうち薬剤費は10兆円。そこに2兆円近い金額がのしかかってきたら国がもたない――。里見氏はそう説く。

 これが自腹であれば、払える人はごく限られるだろうが、日本には、医療費の自己負担分が一定額を超えると、それ以上は国が払ってくれる「高額療養費制度」があるから、患者は高すぎる薬でも“気軽に”使える。

 ところが、大方のメディアは“夢の薬”を、無定見に称揚するばかりだ。たとえば「文藝春秋」5月号は、「最新医療に乗り遅れるな」という大特集を組んだ。まさに「国が亡ぶ」契機になった日独伊三国同盟締結前のスローガン「バスに乗り遅れるな」を思わせるが、ともかく、その中でニボルマブの“産みの親”である本庶氏と評論家の立花隆氏が、「がんを消す免疫薬の真実」というテーマで対談をしている。

 その随所にうかがえる甘い認識に、里見氏は適確に批判を加える。すると、今、目の前に迫りくる危機の姿が、明瞭に浮かび上がってくる。

「大前提として、私はこの薬の悪口を言っているのではありません。なくてもいい程度の薬なら、使わなければいいだけですが、ニボルマブは非常に良い薬なので使わざるをえない。そうするとコストが問題になると指摘しているのです。

 何はなくとも、食い物が高くなると困りますが、われわれにはまさに主食に匹敵するほどのインパクトのある薬です。ただし本庶先生もご指摘のように、いくつかの問題があります」

■使い続けるしかない

 件(くだん)の「文藝春秋」誌上の対談で、立花隆氏の、

〈効く人と効かない人のちがいは何か、わかっているのですか〉

 という問いに、本庶氏はこう答えている。

〈ニボルマブには二つの大きな問題があります。一つは効く人と効かない人がはっきりと分かれること。それから効かない人が事前にわからないことの二つです〉

「事実、効く人と効かない人に分かれるのですが、どの患者に効くのか事前にわからない。わからない以上、みんなに等しく使わざるをえません。そのうえ、結果的に無効でも、途中で本当に効いていないのかを判定するのが難しいのです。

 と言うのも、ニボルマブの場合、効く前に一度、腫瘍の影が大きくなることがあるらしい。一般的な抗がん剤や分子標的薬は、使った後でがんが大きくなったら効果がないと判定できますが、ニボルマブは時々こうした逆転が起こるので、効果がなさそうでも、あきらめるわけにはいかない。結果的に、何回か無駄に投与せざるをえなくなります。

 実際、黒色腫への投与で、すでにこうしたことは起きています。投与後にがんが増大し、医師がさすがにもうダメと思っても、患者は『もう1回やってください』と訴える。ほかの薬なら、大きくなっているからダメだと言えますが、ニボルマブでは医師にもダメという根拠がない。結果、無駄な投与が続けられる」

 それに関しては、「文藝春秋」で本庶氏は、次のように語っている。

〈この薬は、その人の免疫を使ってがんをやっつけるものなので、元々本人が持っている免疫力が千差万別である以上、あまり効かない人が出てくるのは仕方ない面があります。そこで僕らの研究室はもちろん、世界中の研究者が効かない人をあらかじめ見分けるマーカーがないか、あるいは効かない人をどうすれば救えるのかという二つの課題にとり組んでいます〉

「たしかにその通りですが、ニボルマブに関しては、ちゃんとしたマーカーはないし、開発されたとしても使えるかどうかは別です。

 仮に、ニボルマブが30%の患者に効くとします。マーカーによって、効く可能性が10%の集団と50%の集団に分けられるようになったとしたら、科学的には非常に大きな発見です。

 でも、10%と判定された人に、『あなたは可能性が10%だから、使用はあきらめましょう』と言えるでしょうか。すでにほかの治療法がない患者に、当たれば効果が大きい薬の使用についてそう伝えるのは、人情として忍びない。9回裏ツーアウトで1割打者しか残っていなくても、打つ可能性が1割はある以上、試合は続けますよね。

 分子標的薬は、可能性がゼロに近いところまでマーカーで判定できるので、患者に『あきらめよう』と言えます。しかし、ニボルマブのような免疫の抗体薬に関しては、そういうマーカーは見つかっておらず、仮になんらかのものが出ても、先のように、患者に引導を渡すところまで漕ぎ着けるのは難しいのです。

 よいマーカーが開発されない事情はほかにもあります。免疫チェックポイント阻害剤は、ニボルマブ以外にも数々登場していますが、開発しているのはいずれも世界のメガ・ファーマです。各社入り乱れての開発競争が行われ、マーカーでの患者選択も研究されていますが、やり方はバラバラです。各社が別々の測定系を使い、バラバラにデータを出している。思惑や利害がからみ、どれか一つに統一することができない。だから『この患者には効かない』といった判定を下す方法自体ができていないありさまです。

 本庶先生は研究者の視点で、世界中の研究者が取り組んでいるのだから、いずれ結果が出る、とおっしゃる。その通りだとしても何年もかかります。その間も患者はニボルマブを使い続け、新しい薬も次々に登場する。お金がどんどん費やされ、国がもちません」

■医療費全体を押し上げる

「とにかくこの薬価は高すぎます。立花隆さんも、『文藝春秋』でそこを指摘しています」

 立花氏はこう言う。

〈ニボルマブについて指摘されている、もう一つの問題は薬価が高いということですね。一回の投与に約七十三万円かかる。保険適用外のがんに使った場合は、年間千五百万円という試算もあります〉

「しかし、立花さんが言う金額は、黒色腫に使う際の量とスケジュールで計算したもの。肺がんには倍以上の量を使うので、年間3500万円です。

 また本庶先生の発言から、新薬の承認などの際に権限を持つ独立行政法人PMDA(医薬品医療機器総合機構)が、いかにとんでもない考えかがわかります」

〈PMDAの人に「なんで高くしたの?」と聞いたら、「日本発の薬だから応援したい」と言っていました。その気持ちはわかるけれど、もう少し下げられたのではないかという気はしますね〉

 というのが本庶氏の発言である。

「応援は自腹でするものです。PMDAはいったいどんな権限で、税金を使って人の応援をするのでしょう。医療費すなわち国家予算を自分のお金だと思っていなければ、こんなセリフは出てこないはずです」

 続いて本庶氏は、

〈しかし、里見さんの医療費全体を押し上げるという議論は乱暴だと思いましたよ。既にある抗がん剤、なかでも分子標的薬と言われるものだってかなり高い。一回、百万円程度のものもある〉

 と、里見氏を名指しにして反論。それを受けて立花氏も、

〈もっと高いものもありますね〉

 と発言している。

「ニボルマブより高い薬は日本に少ないのですが、本庶先生がおっしゃるように、いくつかあります。しかしそれは発作性夜間血色素尿症とか、ファブリー病とか、非常に珍しい病気のためのものです。何万人も患者がいる肺がんと同列には扱えない。総額は桁違いです。

 ニボルマブを使う患者全員が1年も投与はされないでしょうが、3分の1だけでも6000億円です。薬に関する世界の売上番付で、2014年に第1位になったのはヒュミラというリウマチの薬で、130億ドル(約1兆3800億円)。ニボルマブは1兆7500億円という私の計算が当たったら、世界の売上のトップを日本だけで超してしまう。6000億円でも世界の13位くらいにはなります。

 それに、薬価はひとつが高くなるとそれが前例になって、次の薬はみな高くなります。今後ニボルマブの二番煎じが出てくれば、薬価は最低でも同額で、むしろ高くなる可能性が高い。違う薬が登場すれば、ニボルマブで無効なとき、患者はそちらも使ってほしいと言うでしょうから、薬剤費はどんどんかさむ。

〈医療費全体を押し上げるという議論〉は、乱暴でもなんでもありません」

 続いて本庶氏は、次のような認識を示す。

〈最先端の分子標的薬といえども、一時的にしか効きません。しかし、ニボルマブは半年程度の投与で済む。ずっと続ける必要はない薬です。その後もし何年も効果が持続して、他に治療の必要がなければ、結果的に医療費を押し上げない。それにニボルマブが普及して適用が広がれば、薬価も下がるでしょう〉

「たしかに、投与を半年でやめて、たとえば効果が3年間続くなら、コストパフォーマンスは悪くありません。しかし現時点では、効いている人に対しては、ニボルマブはエンドレスで投与するという臨床データしかありません。途中でやめて、その後も効果が続いた患者の例は報告されているものの、一般的なデータはないから、継続せざるをえない。実際、効いている患者に『やめてみよう』とはなかなか言えません。本庶先生の理論は、臨床現場での実際の投与方法とは乖離しています。

 また、〈薬価も下がる〉というのも、5年、10年経てば下がるかもしれませんが、そのころには次の薬、また次の薬が出てきて、その間に何兆円もが費やされます。それに、ニボルマブの薬価は今の半分になってもまだ、べらぼうに高いのです」

医療品医療機器総合機構

■「日常生活活動度」が大事

 しかし、事態はすでに動き出している。ニボルマブは臨床の現場でどんどん使われ、メガ・ファーマは「第2のニボルマブ」開発に、しのぎを削っている。われわれはなにをなすべきだろうか。

「医療の世界では、がんを克服する、再生医療を実現するといった『大目標』がいまなお健在で、実際、それに向かって日々、長足の進歩が達成されています。

 ところが、『フォーブス』誌2014年5月号では、免疫療法など『がん治療の進歩』を特集した記事に、こんなタイトルがついていました。『Sure, We'll (Eventually)Beat Cancer. But Can We Afford To?(われわれは結局、がんをやっつけるだろう。しかし、そのカネはあるのか?)』。

 ある意味では、われわれはそういう『大目標』よりも、持続可能な『現状維持』を優先すべきではないでしょうか。場合によっては、少しずつ後退するのも許容しなければならない。

 がん治療に限った話ではありません。たとえば老化の研究でも、再生医療の手法を用いるなどして、老衰や認知症の治療ができるようになるかもしれませんが、莫大なコストがかかることは間違いない。それでなくても薬の開発費は9年で倍のペースで増加しているそうです。病気や老衰を克服し、90歳の寿命が120歳まで伸びたとして、減少する生産人口は、100代、110代の老人をどうやって支えるのでしょうか。

 結局のところ、医学の進歩が目指す『大目標』の対象になる患者と、そうでない人たちを、どこかで分けなければいけません。そうでなければ、全体が破綻してしまいます。

 今後の医療はなにを目指すのか。個別に考えねばなりません。高齢者ならば、90歳を120歳にするのではなく、90歳の日常生活活動度を保つほうが大事です。寿命は天命とあきらめてもらって、それが尽きるまでは『動ける』『ボケない』ことを第一とするのです。

 命は何よりも尊いのか。大事なものは何であるのか。曽野綾子先生の『一定の年齢になったら死ぬ義務がある』という『極論』の意味を、われわれは真面目に考えるべきと思います」

「【短期集中連載】医学の勝利が国家を亡ぼす 第2回 メディアが煽る「夢の薬」の落とし穴――里見清一(臨床医)」より

里見清一(さとみ・せいいち)
本名・國頭英夫。日本赤十字社医療センター化学療法科部長。1961年鳥取県生まれ。東京大学医学部卒業後、国立がんセンター中央病院内科などを経て現職。日本臨床腫瘍学会協議員、日本肺癌学会評議員。著書に『偽善の医療』『医師の一分』『見送ル』『医者と患者のコミュニケーション論』など多数。

週刊新潮 2016年5月19日菖蒲月増大号掲載