前震の後に取った“ある行動”で助かった例も 本震まで28時間 何が生死を分けたのか?

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 40人以上の死者を出した「熊本地震」は、震度6弱以上の地震が連続するというかつて我々が経験したことのない展開を辿った。いつ止むとも知れぬ激震が続く被災地では、あたかも瓦礫のそこここから顔を出す花のように、数々の人間ドラマが繰り広げられていた。

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各地に大きな爪痕をのこした

 前震が発生した時、誰もそれが前震だとは思わず、28時間後に、より規模の大きい本震が待ち受けていようとは予想だにしていなかった。その28時間で何をしたか、何があったかによって本震での生死が分かれた例は多々あり……。

「あの本震が起こった時、私は完全に寝ていて、目を少し覚ますと、自分がベッドの上でトランポリンみたいに弾んでいることに気付いたんです。で、次の瞬間、ベッドから放り出され、ガガガッ、バキバキバキという轟音とともに天井が崩れてくるのを感じました。目を開けると、私は床に横たわり、鼻の先くらいに落ちてきた天井があった」

 振り返るのは、東海大農学部2年の権田萌恵子さん(19)だ。熊本県の南阿蘇村にある東海大農学部生用アパート「グリーンハイツ」。権田さんは、4月16日に起こった本震で1階部分が押し潰されたこのアパートの107号室で暮らしていて一時閉じ込められたものの、奇跡的に救出された。命を落とした東海大農学部4年生の脇志朋弥(しほみ)さん(21)は、権田さんの隣の隣、109号室の住人だった。

 権田さんが続けて語る。

「辛うじて両手を左右に動かせるくらいのスペースがあったので動かしていると、普段使っていないiPhoneが手に触れた。使っていない携帯なのでいつもは充電は空っぽ、0%なのですが、前震の後に備えとして奇跡的に充電を100%にしていて……。そのiPhoneのライト機能を使って自分の周囲の隙間を探したり、アラーム音を鳴らすことができた」

 28時間――。4月14日午後9時26分にマグニチュード(M)6・5の前震が発生してから、16日午前1時25分にM7・3の本震が起こるまでにそれだけの時間があった。その間のちょっとした判断、機転、人の助け。そういったものが人々の運命を分けたのだ。

 一方、そうした判断や機転が入り込む余地がない中で起こったのが、前震で、

「お風呂から上がって、家計簿をつけようと1階の居間の椅子に座ろうとしていた時でした。ドンッと大きな音がして、突き上げられるような感じになった。上を向いたら、夜空に星と月が見えたのです」

 そう話すのは、前震で震度7を記録した益城町(ましきまち)で暮らしていた宮本ひさ子さん(65)である。

「その後、大きな横揺れがきて地震だと理解したのですが、何とか脱出してみると、以前増築した2階部分が下に落ちてきて、1階が丸ごと潰れていた。そして、私がいた部分はたまたま上に2階がない場所でした。1階の寝室にいたらと思うとぞっとします」

 宮本さん宅と同様に前震で1階部分が潰れ、命を落としたのは益城町の荒牧不二人(ふじと)さん(84)。

「荒牧さんは自宅でカラオケ教室を開いていた。地震当時、家には荒牧さんと奥さん、息子さん、それからカラオケの生徒さんが2人いたそうですが、荒牧さんだけが亡くなった。地震直後、荒牧さんの息子さんが家の前に立ちつくしていて、“父が生き埋めになった。声をかけても反応がない”と仰っていました」(近所の住人)

 この前震の28時間後に発生した本震で命を落とした犠牲者の周辺から漏れてくるのは、次のような声だ。前震の後、手を引っ張ってでも避難所に連れて行っていれば、犠牲になることはなかったのに――。

「本震があった1時間後くらいにアパートを見に行ったんです。誰かいませんかと声をかけていると、潰れた1階部分から男性の声が聞こえてきました」

 そう語るのは、本震で亡くなった矢野悦子さん(95)が暮らしていた熊本市東区のアパートの大家。彼が聞いたのは、矢野さんと一緒に暮らす息子の声だった。

「近所の人に警察を呼んでもらい、息子さんが救出されるまでに1時間くらいかかりました。おばあちゃんがまだ中にいるということだったのですが、声をかけても返事はなく、瓦礫の中から見つかった時にはすでに亡くなられていたと思います。前震の翌日、息子さんと話した時、“おばあちゃんは足腰が悪いので、余震はあるかもしれないけどここにいます”と仰っていたんですよね……」

 益城町の東隣に位置する西原村で犠牲になった野田洋子さん(83)も、前震の後も自宅に留まり、本震で命を落とした1人である。

「野田さんの自宅はかなり古い家で、本震でぺちゃんこになってしまった。野田さんは梁の下敷きになっていて、発見された時にはすでに亡くなっていた。西原村は隣の益城町と違って、前震での揺れはそこまで大きくなかった。その後は余震だけだろうと皆が思っていたでしょうし、実際、本震が起こった時に避難所にいた方は少なかったですよ」(西原村の消防団員)

 益城町の自宅で亡くなった村田恵祐さん(84)の義弟の高田義大さん(83)は、

「本当に悔やまれます」

 と、声を絞り出す。

「前震の次の日に家の様子を見に行った時、お義兄さんは“リフォームか建て直しをしないといけないね”と言っていた。私は不安になって“夜は避難所に行ったらどうか。人がいるところのほうが安心でしょう”と提案したのですが、お義兄さんは、“家は壊れない。大丈夫だ”と言って自宅に残ったのです」

■“人の命が優先だけん”

 前震の後に1人の男性が取った行動によって、マンションに住む全員が助かったという例もある。熊本市東区にある9階建ての賃貸マンション「秋津グリーンプラザ」。ここは本震の後、マンション全体が傾いて、いつ倒壊してもおかしくない状態に陥ったが、重傷者や死者は出なかった。

「前震の後、すぐに停電になったんですが、真っ暗な中、1階に住んでいる金髪のとび職の兄ちゃんが1階から9階までの三十数戸全ての安否確認をして回った。玄関のドアが潰れて開かなくなってしまった部屋も結構あったのですが、金髪さんは窓の格子を力ずくで壊し、そこから外に引っ張り出してあげていましたよ」

 と、マンションの住人の1人は言う。別の住人も、

「金髪のお兄さんには、まだ小さい子どもが3人もいて、奥さんが“もう行かないで!”と泣いて叫んでいました。でも彼は、“人の命が優先だけん”と言ってマンションの中を走り回っていましたね」

 件(くだん)の金髪の兄ちゃん、平野寛祈さん(25)は照れ笑いを浮かべながらこう話す。

「なんで他の住人を助けたか? 最初の地震の後、自分も玄関のドアを無理やり蹴って開けて出た。で、自分ちが開かんくらいやけん、他にも開かんところがあるだろう、出れんならヤバイなと思って。最初の地震でもう潰れると思ったけんですね、自分は……」

 無論、この平野さんのように本震の到来を予想していたかのような行動を取れた例は稀である。例えば、冒頭で触れた東海大農学部生用アパート「グリーンハイツ」2階に住む男子学生は前震の後、「余震が怖い」と仲間と麻雀を始め、その様子をツイッター上にアップしていた。

「(その麻雀メンバーが)本震の時、どういう動きをしていたのかは知りませんが、皆無事で、それぞれの実家に帰ったらしいですね」

 と話すのは、アパートの107号室で暮らしていた権田萌恵子さん(前出)。彼女の口から漏れたのは、奇跡的に助かった自らの境遇を喜ぶ言葉ではなく、次のような“後悔の念”だった。

「私は助け出される前、外にいた先輩から“脇さん知らない?”と聞かれ、“脇さん、聞こえますか!”と何度も叫んだんですが、返答がなくて……。そこで諦めなければ良かったのかもしれませんが……」

「ワイド特集 『熊本地震』瓦礫に咲く花」より

週刊新潮 2016年4月28日号掲載

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