「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」ではなかった「淀川長治」最後の言葉

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ホテルのスイートルームで暮らしていた

 やがて、美代子氏が家を出て、祖母も亡くなると、87年から淀川氏はテレビ局の近くにある全日空ホテルのスイートルームに移る。

「部屋はいつも担当がついていて、掃除や家事をやってくれるのですが、リビングはいつもグチャグチャ。配給会社から送られてきたビデオや映画の資料、出版社から届いた雑誌や本が無造作に積まれ、床にまで敷き詰められていました。でも、絶対に捨てない。もらったお菓子まで捨てないでずっと取ってあるんですが、決して人には触らせませんでした。少しでも動かすと“これ、動かしたでしょ!”と怒られるんです」

 朝起きて朝食を詰め込むと試写鑑賞やテレビの収録、それから講演などをこなしてまたホテルに戻り、深夜2時、3時まで原稿執筆という毎日。マネージャーを雇わず、スケジュールは全部自分で管理していた。

亡くなる前日も収録

「“どんな作品でも褒める”と言われましたが、評論を書くときはキッチリ批評していました。『日曜洋画劇場』はだんだん視聴率優先のアクションものが増えて、本人の中でも不満や葛藤はあったと思いますが“どんな映画にも必ずいいところがある”が叔父の口癖でした」

 淀川氏が入院すると、毎日見舞いに行くのが美代子氏の日課になった。

「“長く居なくていいから毎日来てほしい”と言われたのです。病院では車椅子で散歩したりするのですが、30分もいたら“もう帰って!”と言われてしまう。試写会に行けない代わりに配給会社などから沢山のビデオテープが送られてきて、病室でも毎日のように見ていました」

 病状は最後まで本人に告げなかった。 

「ああ見えて叔父はすごい怖がりだから、言わなかったのです。“僕、死ぬんじゃないの? ここ四(死)階だし”なんて言い出すから、“4は私のラッキーナンバーだから大丈夫”って励ましたものでした」

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