私の人生は塞翁が馬だった 元大蔵省主計局次長「中島義雄」

企業・業界週刊新潮 2016年3月3日号掲載

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「昔陸軍、今大蔵省」と呼ばれた時代がある。財政から金融まで絶大な権力を振るうエリート官僚たちが、夜な夜な「ノーパンしゃぶしゃぶ」などの接待に興じていた事が明るみに出たのは90年代後半のこと。その渦中にいたのが、元主計局次長の中島義雄氏(73)だった。

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中島義雄氏(73)

「私の人生はまさに“塞翁が馬”ですね」

 中国の故事にたとえて振り返る中島氏は、昨年暮れ、セーラー万年筆の社長を解職になったことを、人生2度目の“災厄”だと言いたいらしい。1度目はもちろん、金銭疑惑を問題にされて大蔵省を辞めたときだ。

「今から思えばやりすぎでしたが、当時はね、正直“なんで自分だけがこんな目に?”と思いましたよ。だって悪いことをしているつもりはなかったんだから」

 東大法学部卒のエリートがしのぎを削る大蔵省にあって、中島氏は将来の事務次官候補と目されていた。主計局次長を勤め上げれば、官房長、そして主計局長、次官というコースが見えてくる。槍玉に挙げられたのは、そんな矢先のことだ。

「私は30代のころから積極的に異業種交流会に参加していました。楽しいからってわけじゃない。業界の本音が聞けるからです。イ・アイ・イ・インターナショナルの高橋治則さんとも親しかったけど、高級料亭で会うのは2カ月に1度ぐらい。それに、夜9時になったら切り上げて職場に戻っていたんです。ノーパンしゃぶしゃぶ? 行ってませんよ」

 当時、派手な接待を受けていたとされるのは中島氏だけではない。東京税関長の田谷廣明氏、証券局長の長野厖士(あつし)氏らも名前があがっていた。だが、中島氏の場合、「二信組事件」を引き起こした高橋氏との関係が深すぎた。高橋氏の知人の儲け話に2000万円を出資していたことが明らかになり、報酬を受け取っていたと報じられたことが致命的だった。

「やっぱり脇が甘かったんだね。でも、あれは “名前を貸してくれ”と言われただけ。2000万円なんて出してないし金も受け取っていない。これは本当。でも、契約書にサインしたことは認めざるを得ません。高橋さんとの付き合いもあって断りきれなかった」

 95年7月、中島氏は辞表を提出する。退職金は受け取らなかった。批判を浴びた大蔵省はやがて金融行政を切り離され、財務省として再出発する。以来、財務官僚は料亭街よりもっぱら役所の食堂で見かけるようになった。だが、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」のたとえではないが、缶ビール片手に打ち合わせをしている姿に、かつてほどの“磁力”を感じなくなったのはどうしたことか。

「役所を辞めてしばらくは人生最大のどん底でした。ツテを頼ってアメリカのランバス大学というところに留学したんです。お金もなく日本からの若い留学生と一緒に寮で自炊生活。これから先どうしていいのか不安で仕方なかった」

 大学では正体がバレないように「弁護士のナカヤマヨシオ」で通していた。

 京セラの稲盛和夫氏から声を掛けられ、入社したのは退官から2年後のこと。

■まだローンがある

「その半年後、コピー機の三田工業という会社が倒産したのです。それで京セラに支援を求めるのですが、その席に私が呼ばれ、交渉役を言い渡された」

 債権カットの相手は国内外の52の銀行団。2000億円の負債を減らすのが中島氏の役目だ。大蔵官僚なら相手を呼びつけるのが当たり前だったが、債権カットの交渉では自分が出向くのが当たり前。ここが再出発の正念場と腹を括った。

「銀行も回収に必死ですから交渉はハードでしたが、主計局の経験が役に立った。基本は相手の顔を立てながら最初に厳しいプランを突きつける。そこから、譲歩して落としどころを見つけるのです。これなら相手も上司に報告しやすい。結局、全債権の8割をカットすることに成功し、三田の社員も救うことが出来た。これで自分はやってゆけるという自信にもなりました」

 中島氏は「京セラミタ」の専務取締役、そして京セラの中国合弁会社の社長に昇進する。その後、船井電機に招かれて副社長、そして08年、セーラー万年筆の経営を任される。だが、会社側と衝突し、昨年暮れに社長の座を追われたのは前述の通り。お互いの言い分は平行線だった。

「残念ながら取締役も3月一杯で辞めます。しかし、家のローンだってまだ残っていますし、体力も気力も充実している。世のためにもっと働いて、人生これで良かったと思えるようになりたい」 

「塞翁が馬」のエピソードは、老人の息子が落馬で怪我をするものの、徴兵されずに済んだことで終わる。さて、中島氏の人生の禍福は――。

「特別ワイド 吉日凶日60年の証言者」より