竹田圭吾さんの妻・裕子さんが手記を発表 最期の日の様子を明かす

社会新潮45 2016年3月号掲載

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 2016年1月10日ジャーナリスト竹田圭吾氏が51歳の若さで亡くなった。竹田さんは2001年から2010年まで『ニューズウィーク日本版』編集長を務め、近年ではテレビ番組のコメンテーターとしても活躍した。竹田さんの妻・裕子さんが「新潮45 3月号」に手記を発表し、竹田さん最期の日々を綴ったその感動的な内容が話題となっている。

2015年8月、夫婦で旅行(京都の貴船にて)

■子ども達には明かさなかった「がん」

 手記は竹田さんが最後の入院をした1月5日から始まる。この日竹田さんは朝から事務所でなんとか仕事をしようと机に向かっていたという。娘さんの作ったすりおろしりんごを食べた後、裕子さんは竹田さんの異変に気付いた。以下《 》内は「新潮45 3月号」より抜粋。

《食後に水を飲もうとしてちょっとむせた。その後も何回か水分を摂ったけれど、今までと違う。水分すらうまく飲み込めない? 不安になり病院に行こうと言ってみるけど、本人からはいとも簡単に「いやだ」と言われてしまった。夜になり、熱があることに気づいた。なるべく冷静に、なるべく刺激をしないように、熱があること、早く処置をしてもらったほうが安心なことを話し、子どもたちにも加勢してもらってようやく病院へ行くことになった。病院ではすぐに点滴を入れられた。期せずして娘が作ってくれた特製すりおろしりんごが最後の食事になった。》

 竹田さんが「がん」と診断されたのは2013年9月のことだ。二人の子どもにどう話そうかと悩んだ竹田夫婦は病名をはっきりとは明かさなかったという。

《そんな子どもたちが主人の詳しい病名を知ったのが今回の入院直前だった。自力で動けなくなっていた主人を、救急車で病院に連れて行くことになった。

 救急隊員の方に訊かれるまま病院名や主人の状態などを話しているとき、「何のがんですか」と言われた。そばには子どもたちがいる。一瞬躊躇したが「膵臓がんです」と答えた。主人に付き添い私は救急車に乗って病院へ行った。娘はその晩インターネットで膵臓がんを調べ、「覚悟をした」と言った。》

■最後の夜

働き盛り、51歳。夫は、1通の手紙を遺して逝った――。最期の日々を綴った感動の手記。
『一〇〇万回言っても、言い足りないけど ジャーナリスト竹田圭吾を見送って』

 5日に入院した竹田さんは一時快方に向かった。7日には裕子さんは「このまま安定すれば家に帰れると、私たちは疑わなかった」と述べている。しかし9日の夜裕子さんが病室に泊まることを決めた後のことだった。

《十時半ごろ娘とお休みメールを交わした直後、看護師さんから血圧が低下したことと尿の量が少ないことを知らされた。慌てて子どもたちに電話をする。タクシーで病院に来ること、絶対あわてないで落ち着いて行動することを伝えた。病室に戻ってきた二人はほぼパジャマのような格好だった。

 三人で主人を囲んだ。私は、どうすれば子どもたちの顔が主人に見えやすいかを考えていた。子どもたちは言葉を失ったように立っている。「お父さんに伝えたいことがあったら今だよ」と促すと、娘が「お父さんにはいろんなことを教えてもらった。お父さんみたいな人になれるようにがんばるからね。ありがとう」と泣きながら言った。息子は「関東大会に行くよ。アメリカンフットボールを教えてくれてありがとう。自分の夢がかなえられるようにがんばるから」と絞り出すように言った。子どもたちの言葉を聞いて私もこらえきれなくなり、結局「今まで本当にありがとう」としか言えなかった。涙があとからあとからあふれてくる。涙が止まらない息子を見て、主人が「泣くな」と言った。それがまた涙をあふれさせる。

 ずっと一緒だと言いたくて、「これからも四人でがんばっていこうね」と言った。すると主人が「じゃあお父さんが『せーの』って言うからみんなで『おー!』って言おう」と言い出した。え?と思いつつ「せーの」につられて小さめに「おー!」と言った。子どもたちも言った。「じゃ、もう一回」。ええ? 「せーの」「おー!」。こんな夜中に私たち家族は何をしているんだろう。急に冷静になる。「せーの」「おー!」。だめだ、笑えてきた。「も一回。せーの」「お」と言いかけたとき、「もういいや」突然終わらされた。

 この状況を本人はどう認識しているのだろうか。そういえば、なんでみんな泣いているんだ、というようなことをさっき言っていたような。
(中略)
 朝になるにつれて私たちの危機も去ったように思えた。肩すかしをくらったみたいだ。もちろんうれしいことだけど、そうなると昨夜の私たちの言動は相当滑稽になる。まあ実際滑稽で、隣の部屋の人たちにかなり迷惑をかけただろうと思う。しゃべり疲れたのか、主人も眠っている。娘と息子にも交代で休んでもらった。》

 小康状態となった竹田さんを囲み、一息をついた三人。やがてそのときはやってきた。

《呼吸の数が少しずつ減ってきた。間隔がどんどんあいていき、最後に呼吸が止まってしまうことも容易に想像がつく。看護師さんからもそう言われた。でももう一通りのことを昨夜やってしまったからか、穏やかにいられる。息子はずっと主人の手を握っていたが、何がきっかけだったのか、気づくと泣いていた。「泣いているのをお父さんはわかったみたいで、手を握り返してきて、その間は呼吸も早くなっていた。夜に泣くなって言ってたでしょ。だからまた泣くなって言ってるんだと思った」と、後で教えてくれた。

 入院して五日目、本当に眠ったまま逝ってしまった。手を握っていた息子も気づかないくらい安らかに静かに逝ってしまった。目が覚めて本人が一番驚いていると思う。本を出したいと書き始めていた。娘の就活も気にしていた。息子の試合を早く見に行きたいと言っていた。心残りはあったけど、きっと満足もしていると思う。》

■失ってわかる父親のすごさ

 在りし日の竹田さんは気難しそうな反面、子どもの事には一生懸命で、学校のPTAも楽しんで参加し、料理にも凝る事があったという。そんな竹田さんをどこにでもいる普通の父親だと家族は思っていたと裕子さんは述べる。

《主人が亡くなったことを様々なメディアに取り上げていただき、会う方会う方が竹田圭吾がジャーナリストとしていかにすばらしかったかを私たち家族に力説してくださった。

「お父さんてスゴイ人だったんだね」と、今さらながら家族で驚く。そういえばご飯を食べながらとか片付けものをしながらとか、私は思いついたときに深く考えもせずに主人に質問をしていた。たとえば「最近ニュースで聞かなくなったけど、ギリシャやスペインってどうなったの?」とか「スーチーさんは今後どういうことをするの?」とか。主人はこともなげに返事をしてくれたけど、すごい努力の人だと改めて思う。
(中略)
 そんな人がすぐそばにいて、マンツーマンで解説してくれる最高の贅沢に、今まで気がつかなくて本当にごめんなさい。
(中略)
 今になってわかる。家族の質問にあんなに明快に答えるお父さんも、子どもたちの主張にあんなに鋭く突っ込むお父さんもそんなにはいないかな。》

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■竹田さんへのメッセージ

 裕子さんは二人の子どもたちが葬儀のときも頼りになり、その後もしっかりとやっていると、鬼籍に入った竹田さんに向かい語りかけるように綴る。

《ニューオリンズの旅行(※最後の家族旅行となった昨年12月の旅行)から葬儀が終わるまで、いろいろな場面で子どもたちがどれだけ父親を好きだったか確認できた。それがわかったことは私にもエネルギーになる。よかったね、お父さん。お父さんと話した通り、うちの子どもたちは大丈夫! 私を気遣いながら毎日自分の本業をきちんと務めているよ。一番ダメなのは私かなぁ。今はまだやらなくてはいけないことに追われて、早く日常に戻りたいと思う反面、日常に戻ったときにいやでもお父さんがいない事実と向き合わなくちゃいけないことを怖いと思っている。でも、私が病室の隅で眠っていたあの夜、「お母さんが心配だ」ってお父さんが言っていたことを二人から聞いたから、私は踏ん張るよ。》

 手記では昨年12月、亡くなる2週間前にアメリカへと旅行にでかけた一家の様子や、鋭いコメントで視聴者をうならせた竹田さんが、どのように世界情勢に対する的確な視座を身に付けたかについても家族の視点から明かされている。また竹田さんが旅立つ直前、一家の心を和ませた心温まるエピソードについても裕子さんは「大笑いした」と明るく描いている。裕子さんの筆致が冷静で平穏なだけに、読む者の心が静かに揺さぶられる。最後に裕子さんは竹田さんへのメッセージをつぶやき、筆を置いている。

《今まで一度も言ってもらったことがない言葉を、番組の流れでテレビを通してだったけど、お父さんが言ってくれたから私も言うね。「愛してるよ」。》

 竹田裕子さんの独占手記「ジャーナリスト竹田圭吾を見送って」は現在発売中の「新潮45 3月号」に全文掲載中。