「ナチス略奪美術品」の深い闇――福田直子(ジャーナリスト)

社会新潮45 2015年11月号掲載

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父は有名な画商

 グルリットの経歴はざっとこうだ。ハンブルクで小学校に通い、ドレスデンでギムナジウム(中・高一貫教育校)に通ったが、大学入学資格試験のアビトゥアはデュッセルドルフで受けた。戦後はフランクフルトとシュトゥットガルトの中間にある寄宿学校に送られ、ケルン大学では哲学と音楽理論を聴講したが、卒業はしていない。成人するまでドイツ国内の都市を転々としている。

 税関での取調べでグルリットは、「美術コレクションは両親からの遺産にすぎない」と主張した。この人物を多少でも理解するためには、まず、父親の経歴を語らなければならない。

 グルリットの父は有名な画商であり、美術品コレクター、ヒルデブラント・グルリット(1895~1956)であった。

 実は、「グルリット」は美術界でよく知られた名前だ。ヒルデブラントの父親は著名な建築史家、コルネリウス・グスタフ・グルリット(1850~1938)で、ドレスデン郊外には彼の名前の道も現存している。「グルリット」は日本のクラシックファンにもよく知られた名前で、マンフレート・グルリット(1890~1972)はヒルデブラントのいとこ。日本に初めて本格的なオペラを紹介した指揮者兼作曲家であった。グルリット家の親戚には作曲家、指揮者、学者、画商、画家などが名をつらねている。

 若きヒルデブラント・グルリットの活躍はめざましかった。ベルリンで美術史を学び、博士号を取得、29歳にしてザクセン州ツヴィッカウ博物館の館長に抜擢された。

 ツヴィッカウ博物館は由緒あるザクセン王家のコレクションを擁していたが、館長に着任早々、ヒルデブラントはコレクションを見直し、現代美術の新潮流を取り入れるという大胆な改革を試みた。ケーテ・コルビッツの彫刻、ペッヒシュタイン、カール・シュミット=ロットルフ、エミール・ノルデなどの作品を紹介し、ココシュカ、リーバーマン、カンディンスキーなどの作品も購入。時代を先取りしたような彼の「改革」はたちまち知れ渡り、「勇気ある現代美術の専門家」と一部で称賛された。

 ところが台頭しつつあったナチス党の前身団体のひとつ、カンプブント(闘争連合)から目をつけられ、ナチスの圧力によりツヴィッカウ博物館の館長を解任されたヒルデブラントは知人の推薦でハンブルクの美術館へ移籍。ここでもクビーン、ファイニンガー、アンソールなどの現代美術作品を購入。ユダヤ人芸術家も擁護していたヒルデブラントは、「美術界のユダヤ化を進めている」と糾弾され、1933年2月、ナチスが政権を掌握すると、ハンブルクでも館長の職を追われた。ヒルデブラントは祖母がユダヤ人、つまりナチス流にいえば、「ユダヤ人との混血」に属する。ナチスにより、強制収容所に送られてもおかしくなかったはずだ。彼がナチスに迫害されなかったのは、美術に関する知識とネットワークがナチスにとって有益であると判断されたからにちがいない。

 美術館長を解任されたヒルデブラントは画商に転向したが、ナチスはヒルデブラントの画廊を閉鎖。美術品を売ることさえ禁止した。ここで「転向」が起こったようだ。

 1937年以降、第二次世界大戦終戦までヒルデブラントは、ナチスの「退廃美術品没収計画」の4人の責任者の一人として、全国から没収された美術品の評価、売買に携わることになる。ナチスの「御用画商」となったのだ。つまり、ヒルデブラントは、「追われる者」から「追う者」へ立場を変えたのである。

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