死球に激怒して投手に襲いかかり、記録達成でバンザイも…プロ野球史に残る「死球王」たちの仰天エピソード

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死球の日本記録達成でバンザイ、投手に感謝の一礼も

 一方、清原とは対照的に、死球の日本記録達成を喜んだ選手がいる。

 2007年にシーズン最多の28死球を記録したグレッグ・ラロッカ(オリックス)だ。

 広島、ヤクルト、オリックスの3球団で計7年間プレーし、通算109死球。約21.8打席に1度の割合で死球を受けており、清原の約48打席に1度と比較すると、2倍以上のハイペースだった。

 2007年9月17日のロッテ戦。4回に清水直行から右肘に死球を受けたラロッカは、シーズン25個目となり、1952年に岩本義行(大洋)が記録した24死球の日本記録を更新した。

 普通なら怒っても不思議ではない場面。ところが、ラロッカが見せたのは、スタンドに向かってのバンザイポーズだった。さらにマウンド上の清水にも「当ててくれてありがとう」と言わんばかりに一礼。

 「どんな記録であっても、日本で達成する記録はとてもうれしい!」

 記録達成を喜ぶラロッカらしい反応だった。

 もっとも、死球に対して常に寛大だったわけではない。同じ清水からは7月17日にも死球を受けているが、次の打席で一ゴロに倒れた際、ベースカバーに入った清水に報復の肘打ちを食らわせ、塁審から厳重注意を受けている。

 同じ投手から受けた死球でも、ある時は肘打ち、またある時は感謝の一礼。態度のあまりの違いに、清水もさぞかし面食らったことだろう。

死球で骨折も翌日に代打出場

 死球による骨折を乗り越え、当時の世界記録だった2215試合連続出場を達成したのが、広島の“鉄人”衣笠祥雄だ。

 歴代3位の通算161死球を記録した衣笠は、1976年8月31日の中日戦で、NPB史上初となる1イニング2死球の珍記録を達成したことでも知られる。

 その不屈の闘志を象徴するのが、1979年8月1日の巨人戦である。

 7回、西本聖から左肩に死球を受けた衣笠は、病院で検査を受けた結果、左肩甲骨の亀裂骨折で全治2週間と診断された。

 通常なら翌日の試合は欠場するところだが、当時の衣笠は1122試合連続出場中。日本記録まであと「124」に迫っていた。

 「明日の試合に出たい」

 その一念から入院を断って帰宅したものの、腕が動かせず、バットを振ることさえ難しい。翌日の出場は絶望的に思われた。

 ところが、翌朝目覚めると、動かないはずの腕を枕にして寝ていたことに気づく。

 「眠っているあいだに動いたのだ。それならバットが振れないわけはない」(自著『人生、フルスイング』佼成出版社)

 衣笠はそう考え、翌2日の巨人戦でベンチ入り。7回に代打で登場すると、打席に立つだけでも記録は継続するにもかかわらず、江川卓の速球を3度フルスイングし、三振に倒れた。

 骨折の痛みに耐えながら見せた3度のフルスイング。そこには、記録を続けるために打席に立つだけでは満足しない、衣笠の野球に対する姿勢が表れていた。

 その後も困難を乗り越え、1987年には2215試合連続出場を達成。現在でも日本記録であり、世界歴代2位に位置する金字塔だ。

 清原、ラロッカ、衣笠。歴代でもトップクラスの死球を記録した3人だが、その反応は三者三様だった。

 怒りを爆発させた清原、記録達成を喜んだラロッカ、骨折してもフルスイングを貫いた衣笠。死球は時に選手生命を脅かす危険なプレーであり、決して美談だけでは語れない。それでも、数々の死球を受けながら第一線で活躍し続けた彼らの姿には、それぞれの野球人生が凝縮されている。

 打者の個性は、ヒットやホームランだけに表れるわけではない。死球を受けた瞬間にも、その選手らしさが表れるのかもしれない。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘! 激突! 東都大学野球』(ビジネス社)

デイリー新潮編集部

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