三浦大輔の「18」を継いだ小園健太が戦力外…名選手の背番号を背負ったドラ1たちの明暗

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将来の先発候補が

 中学時代に140キロをマークし、プロの注目を集めた甲斐は、高校3年春の県大会でノーヒットノーランを記録するなど、最速151キロの本格派右腕として日米のスカウトにアピールした。

 ドラフトではオリックスが単独1位指名。将来の先発候補と期待された。

 だが、プロ入り後は故障などで実力を発揮できず、11年オフ、わずか3年で戦力外通告。育成契約を結んだものの、翌12年に再び戦力外通告を受け、2軍戦登板も4年間通算13試合と、“未完の大器”のまま退団した。

 13年から独立リーグの信濃グランセローズでプレーし、在籍3年間で通算7勝14敗3セーブを記録した。

 一方、打者では、入団早々に掛布雅之のレジェンド番号31をつけた萩原誠の名が挙がる。

 1991年夏、大阪桐蔭の4番打者として打率.688、3本塁打、8打点の活躍で同校初の全国制覇に貢献。同年のドラフトで「意中の球団」阪神に1位指名され、同じ三塁手だったことから、入団と同時に3年間欠番になっていた掛布雅之の31番を背負った。

新天地で羽ばたいて

 95年には7月13日の広島戦で2打席連続弾を放つなど4本塁打を記録。“掛布2世”の片鱗を見せたかに思われたが、その後は肩や腰の故障で満足にプレーできない日々が続く。

 翌年、心機一転、登録名を「誠」に変え、ウエスタンで首位打者を獲得したものの、1軍に定着できないまま98年にトレードで近鉄へ。

 近鉄も01年限りで退団し、日本IBM野洲でアマ復帰。その後、現役時代にケガで苦しんだ経験を生かしてトレーナーを志し、18年に奈良市に整体院を開業した。

 2011年にPL学園からドラフト2位で中日入りした吉川大幾も、入団早々、前年は欠番だったPLの先輩・立浪和義の3番を継承した。

“立浪2世”と期待され、2012年9月13日のDeNA戦ではプロ初打席で初安打、初打点を記録した。

 だが、実働3年で1軍通算出場34試合と期待に応えられず、「3番返せ」とヤジられるなど、わずか4年で戦力外通告を受けてしまう。

 その後、新天地・巨人で出番を増やし、18年には代走、守備要員中心の起用ながら、キャリアハイの97試合に出場。内野のサブとして存在感を示した。

 巨人といえば、松井秀喜の55番は退団後、6年間空き番号になっていたが、2009年に東海大相模からドラフト1位で入団した大田泰示が受け継いだ。

 巨人時代は55番の重圧から力を発揮しきれなかった大田だが、17年に日本ハムへ移籍すると、1年目から4年連続二桁本塁打を記録するなど、新天地で花開いた。

 大田の移籍後、巨人の55番は8年のブランクを経て、22年に入団2年目の秋広優人に受け継がれた。

 身長202センチの大砲で“シンゴジラ”の異名もとった秋広は、翌23年に打率.273、10本塁打、41打点を記録したが、その後は結果を出せず、昨年シーズン途中、リチャードとの交換トレードでソフトバンクに移籍した。

 冒頭で紹介した小園は「もしどこかで野球することがあれば、また自分のことを応援していただけるような選手に、もう一回イチから頑張りたいなと思っています」と現役続行を視野に入れ、再起を期している。

 まだ23歳と若いだけに、新天地で大きくはばたいてほしいと願う関係者やファンも多いはずだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘! 激突! 東都大学野球』(ビジネス社)

デイリー新潮編集部

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