“吉川線”の生みの親「伝説の鑑識官」の手法が追いつめた「説教強盗」の正体…昭和犯罪史に名を残すミステリアスな事件は「手口捜査」で解明された

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 警視庁の捜査をかいくぐり、犯行を繰り返した「説教強盗」。しかし、ついに「ご用」となる日が来た。彼を追い詰めたのは捜査員の執念もさることながら、言い訳の効かない完璧な証拠――科学捜査の結果からだった。犯罪捜査が大きく飛躍するきっかけとなった、昭和4年の大事件を振り返る。(前後編の後編)

説教強盗、捕まる

 昭和4年2月23日午後4時ごろ……。西巣鴨町向原の一軒家に、「火災保険に入ってくれませんか」とカバンを持った男が訪ねてきた。「入らないよ!」と、けんもほろろに追い返されたが、男は隣家に聞こえるような大きな声で「しょうがないですねぇ。では、お隣さんはいますかね?」と尋ね、「知らない」と言われるとその家を出た。すべて、「隣の家の住人」に聞こえるように仕向けたことだった。

 その“隣の家”を訪ねた時、主人の男は奥の六畳間で、新聞を読んでいた。「火災保険の者ですが、保険に入っていただけませんか」。男が声をかけた。「私の家では入っているからいらない」という。「どちらの保険です?」と聞くと、「日本動産に入っている」。それではと、男は引き下がった。毎度おなじみの保険の勧誘がきた――主人はそう思ったことだろう。だが、午後6時50分、家の周りを9人の男に取り囲まれた。

「動くな。警察だ」

「お手柔らかに願います。覚悟はできております。手向かいはいたしません」

 首都・東京を震撼させた説教強盗、妻木松吉(29)が逮捕された瞬間だった。逮捕のきっかけ――それは後の犯罪捜査を大きく変えるものだった。

 大正14年から昭和10年までもの長い間、警視庁鑑識課長を務めた吉川澄一氏。絞殺事件の被害者が、絞められた際に紐や腕をほどこうとするとき、首に引っかき傷をつくる。それが他殺の判断になるとの論文を発表した。現在も鑑識捜査の現場では「吉川線」と呼ばれているものだ。同氏は「司法省指紋担当技官」が科学捜査官としてのスタートで、後に警視庁に移籍する。だが前編でも紹介した通り、当時の刑事警察は、刑事のカンや経験値が優先。犯罪現場での指紋分析なども行われてはいたが、科学捜査が重宝される機会は少なかった。。

 しかし、説教強盗は警視庁の捜査をあざ笑うように都内各地に出没。捜査方針を見直した際に導入したのが、「手口分析(捜査)」。個々の事件を見るのではなく、体系的に窃盗や強盗事件の「犯行時刻」「侵入手口」「強奪品目」「逃走経路」などを分析、共通点を探ると共に、現場に遺留された証拠=犯人のものと思しき資料を洗い出すことだった。現場刑事の捜査と、科学捜査の両面から犯人を追い詰める――今ではすっかりおなじみの手口捜査を浸透させたのも、吉川氏である。

 そこで警視庁は、当初想定していた説教強盗の開始時期を昭和2年ではなく、それより前から盗みを働いていた人物にまで広げることとし、カギのかかっていない窓から侵入、もしくはガラスを破って侵入するなど、共通手口から累犯を割り出した。一連の説教強盗では、指紋が採取された現場もあり、警視庁が保管していた約40万人分の犯歴者指紋と照合を続けた。

 すると大正15年に上板橋で起きた米屋強盗事件が浮上、その現場で採取された指紋と説教強盗の現場で採取された指紋が一致し、妻木の存在が浮かんだのだった。

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