“吉川線”の生みの親「伝説の鑑識官」の手法が追いつめた「説教強盗」の正体…昭和犯罪史に名を残すミステリアスな事件は「手口捜査」で解明された

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複雑な生い立ち

〈「保険の勧誘だと言ってはいってきたとき、刑事さんだということはピンときました」
 と(逮捕後の松吉は)言ったそうである。松吉は警視庁へ連行される自動車のなかで、
「お縄を頂戴するみじめなところを、女房、子供に見られずにすんだのがせめてものことです」〉(松村喜彦著『残虐犯罪史』東京法経学院出版より)

 左官職人だった松吉の人生を、東京日日新聞(昭和4年2月24日付)が「暗い日蔭の生い立ち」の見出しのもと、伝えている。逮捕時は21歳の内妻と長女(4)、長男(2)がいたが、いずれも出生届は出していない。明治34年、山梨県で松吉が生まれた場所は刑務所だった。前掲書によると、松吉の母は18歳の時に同じ工場で働く2歳年上の男性と恋仲になり、松吉を身ごもった。だが、母は贓品故買の容疑で逮捕、収監され、甲府刑務所で松吉を産んだ。出所すると母の相手の男性は死亡しており、別の男性と結婚した。

〈これで松吉母子は貧しいながら落着くべき家を得たのだが、義父は狩猟が得意で、少年時代の松吉は、義父に連れられて山を歩き回り、猟犬がわりに走り回されたらしい〉(前掲書)

 小学校卒業後、農業に従事していたが、牛乳店で働いていたとき、集金の金を使い込んだりスリを働いたりで逮捕、懲役8か月の刑を受け甲府刑務所に服役した。大正10年2月に出所すると上京し、左官になった。やがて内妻と知り合うが、大正14年暮れ、前の女遊びがもとで〈梅毒が発病した。松吉は乱暴にも自分のカミソリで患部を切開し、これがもとで高熱を発し、床についた。悪いことに、その夏、長女が生まれていたので、親子揃って医者通い。仕事には出られず、治療費はかさむで〉(同)。強盗に手を染めたのはこの頃からだった。

〈昭和四年二月検挙されるまで、足掛け四年にわたり、同一手口で金品を強奪した上、女ばかりの家庭とみると家人を縛り上げて婦女に暴行を加えるなど、あくなき凶暴の限りを尽し、その犯行は六十五回に及んだのである〉(『警視庁史』)

 ここに書かれた65回というのは、関係者からの被害届や裏付け・立証が取れ、起訴された件数である。後に説教強盗の弁護をつとめた弁護士の手記(太田金次郎著『弁護二十年』)によると、重ねた犯行の累計は178件に及んだという。ただ、逮捕された昭和4年には、松吉の手口を真似た事件もいくつか起きており、「説教強盗二世」などと呼ばれた。どれだけこの事件が世間に影響を与えていたかがわかる。

晩年は防犯講演を

 松吉は昭和5年12月18日、無期懲役判決を受けて服役。秋田刑務所に服役中の同22年に起きた火事で、延焼を食い止めるなど活躍したことから、模範囚として表彰され、同年、仮釈放になった。弁護士事務所で手伝いをしながら、全国の警察署を回り、防犯講演を行うようになる。

 その間、メディアの取材にも応じ、昭和50年には「週刊ポスト」で小沢昭一氏と対談している(4月11日号)。その中で、「説教強盗」という名前については〈奇妙なよび名で、ちょっとイカすやないの(笑い)〉(前掲誌、以下同)と語り、「松吉」の命名者が、生まれた刑務所の所長だったことを明かしている。また、一連の犯行の中で、被害者の妻に手を出そうとしたことがあったという。

〈わかってるんだ、このひとは(笑い)。医学博士の奥さんで、あんまりキレイなんだ。つい、ムラムラっときて、やろうとした。そしたら、「やるなら、やれ。わたしは死ぬわ」〉

 その態度に胸打たれ、手を出すことはなかったという。晩年は新宿区内のアパートで一人暮らし。昭和62年9月に老人性痴ほう症が進んだことから八王子市内の病院に入院。昭和が終わり、平成になった元年1月29日、気管支炎のため87歳の生涯を終えた。「最後まで罪を償いたい」との本人の希望で恩赦を申請せず、無期懲役囚として保護観察のままだった。

【前編は「『犬を飼いなさい、ドロボウよけには一番です』 闇バイト強盗団とは対照的な『説教強盗』とは? 昭和の帝都を震撼させた“世にも奇妙な犯行”」】

デイリー新潮編集部

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