【豊臣兄弟!】蜂須賀正勝の盟友だった“秀吉最古参の家臣”が 「命がけで仕えた挙句に冤罪をかけられた」あまりにも理不尽すぎる理由
主君の秀次が謀反人に仕立てられてしまった
公家の山科言継は7月8日の日記にこう書いている。「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ御不和也(秀次と秀吉は去る7月3日から不和だ)」。その2年前、淀殿がまた秀吉の子の拾(のちの秀頼)を出産してから、すなわち秀吉に「直系の後継者」が誕生して以降、秀吉と秀次の関係はぎくしゃくする。その後、この7月までに、秀吉が秀次に地位を譲るように求めるなど、なにか具体的なアクションがあった可能性がある。
秀次は7月8日、伏見城(京都市伏見区)に秀吉を訪ねて弁明を試みたが、会ってさえもらえなかった。そこで、わずか5、6人だけを従えて高野山の青厳寺(和歌山県高野町)に入ったが、やはり秀吉の許しは得られない。そこで耐えていれば別の展開もあったかもしれない。ところが、秀次は自身の潔白を証明すべく、切腹してしまったのである。「くわんはくどのきのふ十五日のよつ時に御はらをきらせられ候よし申、むしちゆへ、かくの事候のよし申なり(関白は昨日15日の朝10時、切腹なさったそうだで、無実だからこうしたとのことだ)」(『御湯殿上日記』)。
近年の研究では、秀吉は秀次に蟄居はさせても命を奪うつもりはなかった、という考え方が有力である。それなのに、秀次が『御湯殿上日記』にあるように、無実を訴えるために腹を切ったなら、豊臣政権には大打撃だ。貴族の最高位で天皇に代わって政治を司る関白が自殺するなど、朝廷の歴史において前代未聞であり、政権が無実の関白を死に追いやったなら、政権の正統性が問われる。そこで秀吉は、秀次を徹底的に謀反人に仕立てたと考えられる。
そうでなくてもこの時代、貴人の死には、道連れとなる気の毒な犠牲者がつきものだった。秀次が切腹した際には小姓ら5人が自死している。また、5人の側近も後を追っている。だが、秀次が謀反人に仕立てられた以上、それだけでは済まなかった。
父より先に息子を殺して家の断絶を意識させる
後世に編纂されたものではあるが、複数の史料に、秀次が秀吉と対立した際、前野長康が秀次の無実を訴え助命を求めて奔走した旨が記されている。そのために、長康は秀次の共謀者と判断されてしまったようだ。秀次の「謀反」がでっち上げである以上、共謀もへったくれもない。そもそも秀次を支えるように長康に命じたのは秀吉だった。しかし、秀次の「謀反」というストーリーをでっち上げた以上、秀次をかばった人間は連座させないと筋が通らない。
そこで秀吉は、最古参の家臣で、これまで生涯をかけて秀吉に尽くし、豊臣政権の樹立に貢献し、その後も支えてきた前野長康に、想像を絶する重い処分を科す。それは負わされた苦痛の重さという点でも、あまりにも過酷な処分だった。
というのも、父の長康より先に、嫡男の前野景定を切腹させたのである。父親が生きているうちに、先に嫡男を死なせて家の断絶を意識させるという、当時の武士にとってあまりに重い精神的な苦痛をあたえる処分だった。そして、3日後の文禄4年(1595)8月19日(7月19日とする説もある)、長康も六漢寺(京都市伏見区)で切腹させられた。但馬出石の11万石の領地が没収されたことはいうまでもない。初期から秀吉を支えた大名家としての前野家の歴史は、ここに完全に断たれることになった。
「秀次事件」は秀次の妻子三十数名の斬殺という、あまりに残酷なできごとにつながっており、そこばかりに目が向かいがちだが、前野長康のように「事件」に連座して死に追い込まれた人たちも、負けず劣らず無惨である。この結果、黎明期から秀吉を支えた古参の家臣としては、蜂須賀正勝の蜂須賀家が、明治維新を迎えるまで阿波を統治したのに対し、前野家は断絶。それもはなはだしい冤罪。あまりにもくっきりと明暗が分かれてしまった。
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