【豊臣兄弟!】蜂須賀正勝の盟友だった“秀吉最古参の家臣”が 「命がけで仕えた挙句に冤罪をかけられた」あまりにも理不尽すぎる理由

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蜂須賀正勝と並んで秀吉を支えた黎明期からの家臣

 四国を平定した羽柴秀吉(池松壮亮)は、畿内と近郊の領地を再配分した。その席で蜂須賀正勝(高橋努)は、四国での軍功を理由に阿波(徳島県)一国を授けられながら辞退。みずからの引退を宣言したうえで、阿波は息子の家政にあたえてほしいと懇願し、秀吉に受け入れられた。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第37回「秀長の国」(9月27日放送)。

 これは天正13年(1585)のできごとで、年が明けると正勝は体調を崩し、天正14年(1586)5月22日に命を引き取った。この『豊臣兄弟!』に正勝が登場する最後の場面では、一人酒を飲もうとしている正勝のもとに秀吉と秀長(仲野大賀)、それに前野長康(渋谷謙人)が現われ、正勝をねぎらった。この長康も、もとはといえば正勝の同僚で、『豊臣兄弟!』のなかでは派手なあつかいではなかったものの、正勝同様、常に秀吉と秀長の側に仕え、忠義を尽くしてきた。

 長康が正勝とともに、『豊臣兄弟!』に初登場したのは、第7回「決死の築城作戦」(2月22日)だった。永禄9年(1566)に秀吉は、美濃(岐阜県南部)の斎藤龍興を攻略すべく墨俣(岐阜県大垣市)に砦を築こうとしていたが、うまくいかなかった。その後、尾張(愛知県西部)と美濃の国境の川筋を仕切る川並衆を味方にすることを思いついた秀吉は、かつての川並衆で織田信長(小栗旬)に仕えていた前野長康に案内させ、川筋に出向いて蜂須賀正勝に出会うのだった。これを機に、長康と正勝は秀吉に仕えるようになった。

 実際には長康も正勝も、もう少し早くから秀吉に仕えていた可能性が高いが、農民出身で譜代の家臣がいない秀吉には、正勝も長康も貴重な最古参の家臣だった。

 第37回の前述の場面では、長康の今後についても触れられた。秀長が正勝に「もう少しわしらのそばにいてくれんか?」と懇願し、「長康殿も秀次と近江に行ってしまう。おぬしがおらんくなったら寂しいわ」といったのである。冒頭で触れた領地の再配分で、秀吉と秀長の甥である羽柴秀次(山田涼介)は、あらたに近江(滋賀県)をあたえられた。長康はそこについていく、という意味だろう。

 史実では、長康が秀次の宿老(家老)となるのは、それから数年後で、まだしばらく秀吉に仕えて出世を遂げる。だが、遅くとも文禄2年(1592)には秀次を補佐するようになった。これもまた大きな出世だった。だが、世の中には、本人にはなにも落ち度がないのに、ひどいとばっちりを食らう場合がある。

功を重ねて出世し秀吉の信頼も勝ち取ったが

 蜂須賀正勝が阿波一国の領有を断った際、長康は秀次について近江に行ったのではなく、播磨(兵庫県南西部)の三木(三木氏)の1万3000石から、但馬(兵庫県北部)の出石(豊岡市)の5万3000石へと、加増されて移封となった。四国征伐での軍功が評価されたのである。

 その後も、聚楽第(京都市上京区)の造営の奉行を務め、天正16年(1588)4月、その聚楽第に後陽成天皇が行幸した際には饗応役を果たした。また、それまでも秀吉の主要な戦いに参戦したが、以後も天正18年(1590)の小田原征伐に従軍し、文禄元年(1592)には朝鮮半島に渡って戦った。つまり土木工事から饗応、そして合戦まで、非常に手広く秀吉を支え、こうした功績が評価され、11万石にまで加増された。

 そこまではよかったのである。だが、期待されてさらに重責を担わされたことで、運命は急変する。

 天正17年(1589)5月27日、秀吉の別妻となっていた浅井長政と市の長女の茶々こと淀殿が、秀吉の嫡男となる鶴松を出産した。むろん秀吉は狂喜したが、それから2年余りのちの天正19年(1591)8月5日、病気のために数え3歳で夭折してしまう。その年の1月には弟の秀長も死去しており、深く落胆した秀吉は、失意のなかで甥の秀次を後継者に選ぶ。そして秀次は、秀吉から関白職を譲られ、同年12月28日に関白に就任し、政庁としての聚楽第も譲り受けた。

 その後、秀吉は朝鮮半島から帰還した前野長康に、秀次の後見役をまかせた。天下人の地位を継がせたが、まだ経験が足りない秀次を後見させる――。秀吉が長康をよほど信頼していた証しである。ところが文禄4年(1595)7月、事件が起きる。

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