なぜ人は「CoCo壱番屋」に物申したくなるのか…SNSが荒れる「庶民には手が届きません」批判のウラに“かつての熱心なユーザー”の存在

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「むかし」から見えてくるもの

 ここまで来ると、必然的にこんな疑問が出てくる。「なぜ、人々はここまでCoCo壱に物申したくなるのか?」ということだ。

 おそらくそれは、単に「値段」だけの問題ではない。カレー以外の他の飲食チェーンでも旺盛に値上げが行われていて、CoCo壱だけが異常な値上げをしているわけではない。つまり、「値段」ということではない、CoCo壱だけの要因があるはずなのである。

 こういうときは、「いま」のCoCo壱だけを考えていても答えは見えてこない。遠回りのようだが、あえて「むかし」に遡ってみると見えてくるものがある。

 ということで、少し昔のCoCo壱を見てみよう。

 その創業は1978年。第1号店が開かれたのは名古屋市の繁華街ではなく、市郊外の西枇杷島町(現・清須市)という場所に誕生した。創業者が「田んぼに囲まれた超三流立地」と振り返っている通り、飲食店としては恵まれた立地ではなかった。しかし、逆にその立地でも店を成り立たせるために、家賃の安さを前提にしながら、店の運営を徹底的に標準化した。

 カレーはセントラルキッチンでつくり、店舗では短時間で提供できる。メニューも、基本のカレーにトッピング、ライス量、辛さを組み合わせる方式を生み出し、種類が多く見えても調理工程は複雑になりすぎない。人件費を抑えやすく、客単価も「利用しやすい価格」に設定できた。

CoCo壱番屋と「郊外」の関係

 こうした店舗運営によって、CoCo壱にはフランチャイズ希望者が多く集まることになり、店舗網は郊外を中心に大きく広がっていく。1988年には国内100店舗を達成、1992年にはフランチャイズの業界誌である「Franchise age」で「売上高45カ月連続2ケタ成長を続ける国内最大のカレー専門店チェーン」と紹介されるほどである。

 いわば、1980年代に郊外を中心に全国へ広がったのがCoCo壱だったといえよう。そのとき、CoCo壱の熱心なユーザーになったのは誰だったか。

 ここまでの歴史を見てもわかる通り、CoCo壱番屋は郊外を中心に発達してきており、1970年代以降に郊外に住むようになった、いわゆる「ニューファミリー」を標準とする郊外社会のなかで発達してきたと考えられる。

 特にCoCo壱が生まれた名古屋は、日本の三大都市圏のなかでも、とりわけ「郊外」と相性のいい都市だった。

 東京や大阪に比べて自動車への依存度が高く、広い道路が張り巡らされ、その周囲に住宅地や工場、ロードサイド店舗が広がっていった。後に日本全国を覆うことになる「車で郊外のチェーン店へ行く」という生活様式が、名古屋では早い段階から成立しやすかったのである。

 CoCo壱番屋の“原点”を辿っていくと、現れたのは1980年代の日本を覆い尽くした“一億総中流”のユートピアだった──。

 後編【「ココイチ高すぎる!」に込められた格差社会への怒り…CoCo壱番屋は“一億総中流”と“消費社会”のシンボルから様変わりしてしまった】では、都市ジャーナリストである谷頭氏の「郊外」と「ロードサイド」に生まれた“一億総中流ユートピア”という鋭い論考をさらに詳しくお伝えする。

谷頭和希(たにがしら・かずき)
都市ジャーナリスト・チェーンストア研究家。1997年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業、早稲田大学教育学術院国語教育専攻修士課程修了。「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三期」に参加し宇川直宏賞を受賞。「東洋経済オンラインアワード2024」でMVPを受賞。著作に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社新書)、『ブックオフから考える 「なんとなく」から生まれた文化のインフラ』(青弓社)、『ニセコ化するニッポン』(KADOKAWA)がある。テレビ・動画出演は『ABEMA Prime』『めざまし8』など。

デイリー新潮編集部

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