「江川卓」が逃した「巨人監督就任」3度のチャンス それを阻んだ“球界のドン” 【監督になれなかった名選手たち】
読売のシステムを熟知
球界の盟主を自任してきた巨人が慢性的に抱える最大の問題である。近年もこの弊害が表面化した象徴的事例として、11年に起きた「清武の乱」がある。当時の球団代表・清武英利氏が内定させていた岡崎郁へッドコーチの留任を、渡邉主筆が鶴の一声で覆し、江川ヘッドコーチの招聘を決定したことが発端だった。
結局、この話は清武氏によって暴露され立ち消えになってしまうのだが、渡邉主筆にしてみれば当時の巨人人気の凋落は深刻で、背に腹は代えられないという心境で江川人気を利用しようとしたのだろう。ただ、背景はどうあれ江川が監督になるチャンスだったことは間違いない。
さらに清武の乱から3年後、15年に原辰徳監督勇退から高橋由伸監督が誕生するプロセスでも、監督候補として江川の名前が紙面をにぎわせたが、本人はいたって冷静に対処していた。
「(コーチの)要請はありませんでした。仮にきてもお断りしていました」
江川が巨人の監督問題に関して常に慎重な発言に終始するのは、読売のシステムをイヤというほど熟知しているからだろう。たとえ巨人の監督になったとしても、決して自分が思うようにはできないことを理解しているのだ。
江川は2010年のある対談で「自分は考えを譲れないタイプなのでコーチではユニホームを着ない」としながら、「年齢的に最後かなと思ったときには、巨人以外のユニホームを着ることもあるかもしれない」とも語っている。
引退から30年の歳月が流れた。それでも、まだ彼に期待してしまうのは、やはり野球人として魅力があるからだ。「巨人・江川監督」は、幻で終わらせるには、あまりに惜しい。
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この記事から6年後の2024年、渡邊氏は世を去った。しかし、その後も江川氏を取り巻く状況は変わらぬままだ。このまま江川氏はユニホームに袖を通すことはないままなのか、それとも――。
【前編】では、江川入団時の巨人との“密約”について記している。父が語った「息子の夢」とは――。
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