【豊臣兄弟!】名誉を重んじる柴田勝家に不名誉な身投げをさせたNHK どうして史実を歪曲し「戦国の非常識」ばかり詰め込むのか

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勝家と市の身投げはインパクトが強かったが

 賤ヶ岳合戦で敗北し、居城の北ノ庄城(福井市)へと敗走後、羽柴秀吉(池松壮亮)の軍勢にすっかり包囲された柴田勝家(山口馬木也)。いったんは自害しようとした市(宮﨑あおい)を止め、「この勝家が最後までお守りいたします」と伝えると、天守の内部にまで迫ってきた追手を切り伏せながら、ついには最上階にまで追い詰められた。そして槍を構えた藤堂高虎(佳久創)が「柴田殿、お覚悟を」と告げると、少し静かな時間が流れた。

 市は落ち着いて「頼もしいのお。みなよい顔をしておる」と、彼らを取り囲む数人の兵士に語りかけた。続いて、勝家が刀を投げ捨てると、「よお見ておけ。これが戦じゃ」と、すがすがしい表情で言い放つと、市と手をつないで、天守の欄干を超えて身投げした。寸前に最上階まで駆け上がってきた小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)も、その場面を目撃することになった。

 NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第33回「北庄(きたのしょう)城の別れ」(8月30日放送)。かなり印象的な場面ではあった。天守最上階からの身投げも、斬新であるだけにインパクトが強かった。柴田勝家がどのようにして死んだのか、史料等に記されていないのであれば、このように斬新な場面を創造することにも、少しは意味があるかもしれない。だが、勝家の最期については、多くの史料により詳らかに伝えられている。それなのに、迫力や斬新さを追求するあまり、はっきりしている史実までねじ曲げるなら、疑問だといわざるをえない。

 さらにいえば、身投げは追って述べるように、名誉を重んじる武士が決して選ばなかった手段である。その意味では、史実を曲げる方向についても感心できない。

 歴史ドラマにフィクションはつきものだ。何百年も前の状況や人物について描くのだから、史料等に記されていないことだらけであり、そこをいかに、その時代、その人物らしくフィクションで埋めるか。そこに脚本家やドラマの制作サイドの力量が問われる。エンターテインメントなのだから、史実をもとにした脚色も許されると思う。

 だが、当時の状況が明確にわかることなど多くないのに、限られた「わかること」をあえて歪曲して描くのは捨て置けない。NHKが大河ドラマを「歴史ドラマ」と呼んでいるかどうかはともかく、脚本や映像に当該の時代の描写として不自然なところはないか、時代考証を担当する複数の専門家がチェックしているのだから、れっきとした「歴史ドラマ」である。視聴者が歴史を誤解しないための配慮が必要なはずである。

勝家は市を刺殺したのちに腹を切った

 柴田勝家がどんな最期を遂げたと史料に記されているか、最初に確認したい。天正11年(1583)4月23日に北ノ庄城を包囲した秀吉は、翌日未明に総攻撃を命じた。戦国史研究家の和田裕弘氏が『柴田勝家』(中公新書)に、秀吉の書状を記しているので、それを見てみよう。

 4月26日の書状には「天守へ取上、妻子以下刺殺、切腹、廿四日辰下剋相果候(天守に登って妻子以下を刺殺し、自身は切腹、24日午前9時ごろに果てた)」と書かれているという。3週間ほどして小早川隆景に宛てた書状には、もっと詳しい。概ね次のようなことが書かれているという。

《北ノ庄城の9重の天守に、勝家は200人ほどで籠城した。天守内部は狭く、下手に攻めれば負傷者が多く出るので、精鋭の兵士だけを選んで刀剣だけもたせて突入させた。勝家は何度も斬って出たが及ばず、最後は最上階に上がり、自分の腹の切り方を見ておけ、と呼びかけると、妻子をはじめ一族を刺殺。その後、切腹すると、親しい80人余りも後を追って腹を切って果てた――》。

 秀吉がみずからしたためた書状だから、自身の功を強調した面もあろう。だが、ここに書かれた内容には、脚色の必要性はさほど感じられない。秀吉側近の大村由己が記した『柴田退治記』も、秀吉の事績を正当化するねらいがあるプロパガンダ的な史料ではあるが、やはり同様に、勝家は妻たちを刺殺したのちにみずから腹を切り、家臣80人が後を追ったと記している。それは小瀬甫庵『太閤記』の記述とも重なる。

 イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが書いた内容も、秀吉らの「公式プロパガンダ」とかなり重なる。それは概ねこんな内容だ。勝家は城内に藁を積んで火薬を撒き、そこに火が点くと、まず妻の市、次いで一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で自身の腹を十文字に斬った。城内に残るほかの人たちも、まず自分の妻子を殺し、自害した。この様子を秀吉らに伝えるため、勝家は話術に長けた老婆に一連の状況を目撃させ、裏門から逃がして敵に詳しく語らせた――。

 目撃した老婆に語らせたのなら、これはかなり生々しい描写ということになる。秀吉の書状や『柴田退治記』と異なるのは、秀吉が送った精鋭が勝家を追いつめたという描写が、フロイスの記述にはない点だ。もしかすると、みずからの軍勢が最後まで勝家を追い詰めたように、秀吉側が創作したのかもしれない。

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