【豊臣兄弟!】NHK禁断の歴史歪曲 「絶対に秀吉を裏切らない」部将をなぜ裏切り者に仕立ててしまったのか
秀吉を裏切る理由が見つからない人物
この場面、史料に伝えられたとおりに描写すると、以下のようになる。羽柴方は余呉湖南岸の守りが弱く、そのうえ総大将の秀吉は、織田信孝を制圧するために岐阜へ向かった、という情報を柴田方がつかんだのがきっかけだった。そこで佐久間盛政は、余呉湖南岸への攻撃を主張。勝家は、勝っても駐屯せずにすぐ撤退する、という条件で攻撃を許可した。
これを受け、盛政は4月20日未明、中川清秀が守る大岩山砦を急襲し、守将の清秀を討ち取って、砦を陥落させた。盛政は続いてすぐ北側の岩崎山砦も攻め落として、守将の高山右近を敗走させ、余呉湖一帯を制圧した。
だが、思いのほかうまくいったばかりに、盛政は「駐屯せずにすぐ撤退する」という勝家の指示を無視して現場に残った。このため、岐阜から13里(52キロ)もの道のりを、わずか5時間前後で引き返してきた秀吉の軍勢の餌食になってしまう。それでも態勢を整えなおして戦ったが、余呉湖の北側に布陣していた前田利家と利長父子が突如として戦線を離脱。このため盛政の軍勢は前後から挟み撃ちに合って、壊滅的に敗北した。
だが、中川清秀が裏切ったと記す史料は存在しない。史料で確認できるかぎり、清秀は秀吉を裏切るどころか、佐久間盛政の軍勢に攻撃され、壮絶な戦死を遂げている。機を見るに敏なところはある武将だったので、そういう描き方にしたのかもしれない。だが、機を見るに敏ならなおさら、この状況で秀吉を裏切ったとは到底考えられない。
秀吉の下にいてこそ今後の出世が見込まれた
中川清秀はどのように「機を見るに敏」だったのか。賤ヶ岳合戦からさかのぼること4年半ほど前、荒木村重が織田信長を裏切って有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城した。このとき信長に反旗をひるがえすように村重の背中を押したのは、ほかならぬ清秀だといわれる(『立入左京亮入道隆佐記』)。しかし、村重が頼りにした清秀は、籠城戦がはじまって1週間もすると織田方に寝返ってしまい(『信長公記』など)、村重に勝ち目はなくなってしまった。
このエピソードがあるため、「豊臣兄弟!」では清秀を裏切り者に仕立てたのではないだろうか。だが、織田方に寝返って以降の清秀の歩みを見れば、清秀にかぎって秀吉を裏切るメリットはない。というのは、清秀は秀吉に大きな恩を売っており、命さえあれば、どう考えても今後の出世が見込める状況にあったからである。
中京大学の馬部隆弘教授(日本中近世史)が令和6年(2024)に古書店で入手した秀吉の書状によれば、本能寺で信長を斃した明智光秀の軍勢と秀吉の軍勢が戦ったとされる山崎合戦に、秀吉は間に合っていなかった。決戦が行われた天正10年(1582)6月13日、秀吉は山崎から12キロ離れた場所から「明日、出陣する」という書状を書いていた。ところが、秀吉の予想に反して、光秀は13日に撃って出たので、中川清秀のほか池田恒興、高山右近という、摂津を治める3人の武将が戦って、光秀を敗走させたという。
つまり、清秀らの活躍がなければ、秀吉は信長のかたきを討った功労者として、天下獲りに名乗りを上げることができなかったとさえいえる。
むろん、山崎合戦に間に合わなかったのは、秀吉にとっては不都合な真実なので、日本の史料にそういう記述はない。しかし、日本の権力者に忖度する必要がない宣教師は、そのことを記していた。イエズス会のルイス・フロイスは『日本史』に、羽柴軍が遅延している最中に明智が出陣したので、清秀と恒興、右近が戦った旨が明記されている。秀吉の軍勢については〈幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、予想どおりに到着しなかった〉(松田毅一・川崎桃太訳)と、はっきり記している。
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