【豊臣兄弟!】天下一の美人といわれた、宮崎あおい「市」はなぜ「鬼」の柴田勝家に嫁ぎともに死んだのか

国内 社会

  • ブックマーク

清須会議で決められた勝家との結婚

 次に市の動静がわかるのは、兄の信長の死後である。すなわち、本能寺の変から半月経った天正10年(1582)6月27日、織田家の新体制を定める清須会議で、市が柴田勝家のもとに嫁ぐことが決められたと思われる。

 市と勝家の結婚に関しては、勝家が堀秀政に宛てた書状の写しに書かれているのが、残された唯一の史料で、この書状の位置づけから、婚姻が清須会議で決まったと推定される。というのは、10月6日付のこの書状は、清須会議での取り決めがどう進捗しているかを示す内容で、そこに市との結婚が実現した旨が書かれているのである。

 清須会議では、信長と嫡男の信忠、明智光秀が治めていた領土が再分割され、勝家は近江(滋賀県)の長浜周辺に20万石を得た。その理由について、駿河台大学教授の黒田基樹氏はこう記している。〈現在は秀吉の領国となっていた長浜領は、かつてお市の方が嫁いでいた浅井家の旧領国であったことから、秀吉から勝家に引き渡されることになった、と考えられる。ここからお市の方と勝家の結婚と、勝家の長浜領領有とは一体のものであった、とみなすことができるであろう〉。

 だが、なぜ市が勝家と結婚することになったのか、理由を記した史料はない。以前からよくいわれていたのは、秀吉も勝家もともに市が想い人で、争った結果、妻のいない勝家がもらい受けることになった、というものだ。これに類する話は江戸時代に書かれた史料には出てくるが、どこまで信じていい話なのかはわからない。

ドラマほどドラマティックではないが

 しかし、織田家の新体制を決める清須会議で、市が勝家に嫁ぐと決まったということは、この婚姻に新体制を支える意味がなければおかしい。そこで、以下のような解釈が成り立つ。

 清須会議では、信長の嫡男である信忠の嫡男、すなわち信長の嫡孫の三法師を織田家の後継に据え、いまだ数え3歳の三法師を、勝家、秀吉、丹羽長秀、池田恒興という4人の宿老が合議制で支える、ということが決まった。

 もっとも、4人のうち池田恒興は、明智光秀を討った山崎合戦での戦功によって、急遽、合議制の一角を占めるようになったもので(山崎合戦に秀吉が間に合わず、実際には恒興らが戦ったことを示す新史料も見つかっている)、残りの3人が織田家の紛れもない重臣だったのにくらべると、それまでの地位が見劣りする。だから、合議制の中心を占めるのは、3人の宿老だったと考えられる。

 そこで、この3人のバランスをとったのが真相ではないだろうか。この時点で、秀吉は信長の四男(五男とも)の秀勝を養子にしており、長秀の妻は信長の兄、信広の娘で、長秀の嫡男も信長の娘と結婚していた。しかし、勝家には織田家との縁戚関係がない。そこで、信長の妹の市を娶って、勝家も織田家の縁戚になることで、合議体制の均衡を維持したのではないだろうか。

 市にとっても、兄の信長亡き後、3人の娘の養育者を必要としていたはずで、清須会議での取り決めを率先して受け入れるしかなかったのではないだろうか。

 こう記すと、市の選択はあくまでも受け身である。最期は勝家とともに果てた、ということを除けば、ドラマのようにはドラマティックではない。この時代の女性のあり方を考えると、どうしても受け身でしか生きられなかったと思われる。だが、3人の娘は、茶々が周知のとおり秀吉の別妻になり、初は京極高次に嫁ぎ、江は3度目の結婚で2代将軍となる徳川秀忠に嫁いだ。そして江の長男は、3代将軍家光になった。

 先ほど、市は「嫁ぎ先に実家の血を残すという戦国大名の娘の役割」を、浅井長政の娘を産むことで見事に果たした、と書いた。それに即していえば、娘をとおして徳川将軍家の血に織田の血をつないだ、という点で、やはり市は見事であった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。