想像以上に奥深い“ギミック・レスラー”の裏事情…戦後最大の政治疑獄をネタにしたレスラー「ブラック・ロッキード」の誕生秘話 「国際プレスによる東スポへの意趣返しだった」
小林と吉原の関係
“動くギリシャ像”。吉原功は元レスラーで、こちらはその時に付けられた異名である(※3)。格闘歴はアマレスだったが、肉体を鍛錬することにも余念がなく、選手引退後、国際プロレスの社長になってからボディビルの大会にプレゼンターとして出席したところ、出会ったのが小林だった。こちらはプロレスラー志望だったが、性格的にシャイなところがあり、何かに入賞しなければプロ入り出来ないと思い込んでいた。吉原は優しく、声をかけた。
「ウチに来い。今なら新弟子の第一号になれる」
「本当ですか!? お願いします!」
国際プロレス生え抜き1号の選手となり、性格も素直な小林を吉原は可愛がった。1967年7月のデビューはなんと、日本人初の覆面レスラー「覆面太郎」として。しかも「負けたらマスクを脱ぐ」という先鋭的な企画もついていた。結局、1シリーズを14勝1分けで切り抜け、以降は素顔に。生え抜きとしては初めての海外武者修行にも出された。小林のファイトは海外で、高く評価された。それに通じる、本人のプロレス観がある。
「僕は引退後、役者をさせて貰ったんだけど、カメラだけ意識すればいい。随分楽だなと思いましたよ。プロレスは四方から観られている。だから、ヘッドロックをかける時も、背中の筋肉を盛り上げるようにとか、気にかけましたよ」
海外のリングに縁深きグレート東郷や、当時アメリカで隆盛を誇った団体AWAの総帥バーン・ガニアに「こちらに定住しないか」と言われた。だが、小林の答えは一緒だった。
「まだ、吉原さんに、何の恩返しもしていませんので……」
その後、IWA王者として一時代を築いた小林の頭に「退団」の2文字がチラつき出したのは、1973年の夏頃からだった。マッチメイカーがある選手に変更。小林はIWAの王座から一旦は陥落するどころか、取り戻しても冷遇の日々が続いた。退団直前の74年1月シリーズでは、王者にも関わらず全17戦中、メイン出場は4回のみ。そのマッチメイカーはメインに10回出場しているのだが。この時期を振り返る、小林出席の座談会の模様は以下だった。
〈――エースである小林さんがなぜこんな選手と対戦するのか、と不思議な試合も多かったですから。
小林 あれで国際プロレスは僕を必要としなくなったんだな、と感じました〉(「週刊現代」2013年7月13日号)
前出の「今だってお前のことは可愛いんだぞ」という発言の後、吉原は言葉を紡いだ。
「19日(猪木戦)は頑張れよ」
小林の返答も残されている。
「死にもの狂いで頑張ります」
猪木vs小林が、プロレス史上に残る名勝負になったのは周知の通りである。
吉原功は1985年、胃ガンで死去。入院中、小林は関係者とともに見舞いに出向いたが、看護婦の詰所で名前を告げ、その後、会うかどうかを吉原に判断させるほど、吉原の病状は悪かった。しかし、名を告げると、小林は通され、3時間ほど話をした。その際、吉原は呟いた。
「色々あったけど……本当に俺のことを思ってくれてたのは、小林が一番だったな」
小林は、「涙が止まらなかった」と振り返る。
猪木戦で名勝負を残した小林について触れられると、吉原はいつも、得意げな表情を見せていたという。
※1:2009年3月15日、後楽園ホール大会 〇高野(3分45秒 胴絞めスリーパー)ノムラ(※主催はZERO1)
※2:『EX大衆』2007年4月号。後述の門馬記者の発言も。
※3:『プロレス&ボクシング』1957年6月号(ベースボール・マガジン社)より。
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