想像以上に奥深い“ギミック・レスラー”の裏事情…戦後最大の政治疑獄をネタにしたレスラー「ブラック・ロッキード」の誕生秘話 「国際プレスによる東スポへの意趣返しだった」
突然のエースの退団劇
国際には馬場、猪木のような、絶対的なエースの存在が欠けていた。旗揚げ時にメインを務めたヒロ・マツダは外国人レスラーの招聘役も務めていたが、団体と方針が合わず、退団。TBS系列でレギュラー放送が決まり、1968年、その初回放送のメインでルー・テーズに挑戦した新鋭グレート草津は、テーズのバックドロップを食らって失神KO。3本勝負の2本目以降を棄権(試合放棄)という放送事故級の惨事となった。やむなくテクニシャン、ビル・ロビンソンがトップに。日本マット初の外国人エースとなったが、長続きするわけもない。
1971年からは、ボディビル出身のストロング小林をエースに立てた。小林は同団体の看板タイトル、IWA世界ヘビー級選手権を約1年半かけ、連続25回防衛。これは当時の日本人では最多となる世界タイトル連続防衛記録だった。ところが1974年2月13日付けの「東京スポーツ」1面に、驚きの見出しが載る。
〈S・小林が国際プロを離脱〉
翌日には、更に驚愕の文字が躍った。
〈小林が馬場、猪木に挑戦〉
小林が国際プロレスを辞め、馬場、猪木への挑戦をぶち上げたのだ。結局、同年3月19日、新日本プロレスの蔵前国技館大会のメインで、猪木と戦うことに。国際プロレスは1年契約であり、前年2月に契約更改した小林は、この年の2月1日、辞表を提出。この時もIWA世界ヘビーのベルトを保持する現役の王者であった。
団体のエースが突然、他団体のメインで戦う。確かに未曾有のビッグマッチであるが、国際プロレスにとっては青天の霹靂であり大ダメージだ。もちろん辞表は受理せず、契約書の条項で、この一戦を止めにかかった。3月8日、以下を大意として国際プロレスは見解を発表した。
「ストロング小林のリングネームは、国際プロレスが付けたものなので、剥奪」
「契約書第10条には、退団後も一年は国内のリングに上がれないことが明記されており、違反の場合は違約金1000万円(※現在の貨幣価値で約2500万円)を求める」
「猪木vs小林の中止を求める仮処分申請を東京地裁に提出する」
ところが、2日後の3月10日。猪木vsストロング小林は、予定通り行われることに決まった。第三者が割って入ったのだ。それが東京スポーツだった。午後4時半より、銀座東急ホテルの一室で、国際プロレスの吉原功社長と、小林の会談をセッティング。東京スポーツの井上博社長も同席し、以下の要旨を告げた。
「この試合は、ファンも熱望しており、歴史に刻まれるだろう試合である。なので、小林の身柄は、今回、東京スポーツが引き受ける。小林は弊社所属のレスラーとなるため、違約金の1000万円は、東京スポーツが支払う」
どう考えても力業だった。吉原社長は、渋々了承。9日後におこなわれた猪木vs小林を一面で報じる東京スポーツを見ると、その日より同紙が値上がりしていることに気付く(※20円から30円へ)。猪木vs小林の人気を当て込み、値上げの材料に使ったのだ。その値上げ分から、小林の違約金が捻出されたことは、後から関係者伝いに筆者も聞いた。
冒頭の門馬記者は、後に、ベテランプロレス記者、菊池孝にこう言われたという。
「門ちゃん、迷惑したろう。ブラック・ロッキードには」
菊池は国際プロレスのパンフレットの制作も務めていた。門馬の述懐が残っている。
〈(ブラック・ロッキードは)菊池さんと吉原さんの合作。要は、東スポをイジめようということでね。吉原さんの東スポに対する恨みは小林の件〉(『実録・国際プロレス』辰巳出版)
ブラック・ロッキードは、国際プロレスによる、東京スポーツへの意趣返しだったのだ。なお、ブラック・ロッキード選手は出場ストップになることなく1シリーズ出続け、しかもその最中の7月27日には、田中元首相がロッキード疑惑で逮捕されている。なお、覆面の中身は中堅レスラーのレン・シェリー。ブラック・ロッキードとしての戦績は、タッグも含め、5勝13敗だった(ただし、田中忠治にはシングルで勝利している)。やられがちな役回りの選手を中身にしたのも、吉原社長の意向か。上記の東スポを交えての会談で、心ならずも小林の退団を認めた吉原は、閉会後、最後に小林にこう声をかけている。
「本当は、今だってお前のことは可愛いんだぞ……」
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