パワハラ疑惑で百条委「稲森稔尚」伊賀市長…恩師が“非業の死”を遂げた「差別事件」の過去 市長本人は「未熟だったということ。間違った認識でした」と釈明

国内 社会

  • ブックマーク

「人権尊重都市」を宣言

 三重県は1990年、全国に先駆けて「人権県宣言」を議会で決議し、97年に人権尊重をうたう条例を施行。県北西部に位置し、俳聖・松尾芭蕉の出身地として知られる伊賀市でも、04年に差別撤廃条例が制定され、翌年には「人権尊重都市」を宣言した。以降、同和問題を最重要施策の一つに位置付けてきたという。

 そんな市の一部の図書館には、前述の部落解放同盟の手になる冊子が所蔵されている。稲森市長に関わるのは、00年発行の「三重県のあいつぐ差別事件第五集(1996年~1999年)」と「三重県のあいつぐ差別事件第六集(1996年~2003年)」(04年発行)だ。

 どちらにも97年5月、市内の学習塾で起きた同一の差別事件が記載されている。内容は、Aという少年が〈「……」はみんな部落や。O地区も部落や〉などと、O地区に住むCに発言したというものだ。

 このAが稲森市長だと証言するのは、いがまち人権センター(伊賀市人権生活環境部同和課)関係者である。

「Cは女性で、稲森さんの言葉にひどく傷ついた彼女が部落解放同盟の支部員でもあった父親に話したところ、解放同盟が調査に乗り出すことになった。聞き取り作業は人権センターで行われましたが、親と一緒に現われた稲森さんはセンター入り口で悔しそうに泣きながら座り込んでしまったといいます。その後の聴取で、発言が事実だと確認されたため、正式に差別事件として記録されました」

 これを受け、当時、稲森市長が通っていた中学校の教頭は事後処理などに忙殺された末に、非業の死を遂げる。後任となった同中学校の元教頭によれば、

「私が赴任したのは、稲森君が中学3年生に上がった年でした。その前年に起きた彼の差別発言騒動の後、前任の教頭は亡くなりました。年齢は50代半ば。心身の疲労が重なり、自死されたと伺いました」

高校でも“差別発言”

 亡くなった教頭の妻にも話を聞いた。

「朝は誰よりも早く学校に行き、夜は本当に遅く帰ってきました。ただ亡くなった、本当の原因は分かりません。いろいろな思いはありますが、私からは何も言えません。思い出したくもないですし、あの時の悔しさを掘り返すなど……」

 中学卒業後、稲森市長は市内の県立高校に進むが、驚くことに差別発言を改めることはなかった。高校時代の同級生が語る。

「旧同和地区出身の女子生徒に“部落”などの言葉を投げつけただけでなく、何も知らない同級生に“あの子は部落出身だ”と言いふらしもした。他の女子生徒にも差別的な陰口や軽口をたたき、それを苦にして高校を辞めた子もいたはずです。結局、それらの所業がバレて、彼は退学することになりました」

 当時、稲森市長のターゲットにされた女性の一人に連絡を取ったが、「20年以上も前の出来事ですので」と言うのみだ。

 高校時代の担任教師に確認したところ、

「彼が退学になったのは事実ですが、自主退学です。(理由は)差別に関係するような言葉を言ってしまったんです」

次ページ:「他意はありません」

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。