【豊臣兄弟!】秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳合戦で壮絶死 生きていれば「大出世」したはずの恩人とは
いよいよ秀吉と勝家の正面衝突へ
織田信長(小栗旬)の敵討ちを終えた羽柴秀吉(池松壮亮)は、弟の小一郎長秀(仲野太賀、のちの羽柴秀長)にこう告げた。「これはわしらだけの秘め事じゃ。信雄様でも信孝様でもない。このわしが上様の思いを継ぐ」。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第29回「天下への道」(7月26日放送)。
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その後の秀吉は、信長と嫡男の信忠(小関裕太)亡き後の織田家の体制と、主がいなくなった領土の配分を決める清須会議で主導権を握り、政権を簒奪するための策略を、さまざまに凝らす。そんななか秀吉の野心を感じとり、敵意をむき出しにしはじめたのが、信長の妹の市(宮﨑あおい)だった。
第31回「これで、お別れにございます」(8月16日放送)では、市は織田家を守るために柴田勝家(山口馬木也)と結婚し、自分が喪主として信長の法要を行い、主要な面々はみな参列させながら、秀吉だけは排除した。そこで秀吉は、養子にしていた信長の四男(五男とも)の秀勝を喪主に、信長の葬儀を大々的に挙行した。そこに信長の次男の信雄(山脇辰哉)と三男の信孝(結木滉星)の争いもからみ、もはや織田家内はどうにも収拾がつかない状況に陥った。
こうして秀吉と信雄、勝家(と市)と信孝という対立の構図になるが、秀吉はそこでクーデターを決行する。丹羽長秀(池田鉄洋)と池田恒興(堀井新太)を味方につけたうえで織田家の当主に、信長の嫡孫の三法師が成人するまで、次男の信雄を据えることにする。その結果、三法師を岐阜城(岐阜市)に抱え込んで離さない信孝は謀反人とされ、信孝を後援する勝家も弾劾されることになった。
第32回「賤ヶ岳の決闘」(8月23日放送)では、秀吉はかつての自分の居城で、清須会議後は勝家のものになっていた長浜城(滋賀県長浜市)を奪還し、岐阜城に信孝を攻めて降伏させた。これは天正10年(1582)12月のことで、いよいよ秀吉と勝家の正面衝突と、勝家および信孝の滅亡へとつながっていく。
荒木村重を裏切って信長に寝返った
秀吉と勝家の決戦である賤ヶ岳合戦が行われたのは、天正11年(1583)4月のこと。勝家は居城の北庄城(福井市)へと敗走し、4月23日、秀吉の軍勢に包囲されると翌日、市とともに自害した。このように合戦は秀吉の勝利に終わり、秀吉は天下人への地歩を固めたが、賤ヶ岳合戦では、秀吉の恩人であり、この男の力がなければ秀吉は天下を獲れなかった、とさえ思われる武将が戦死している。中川清秀(すがおゆうじ)である。
清秀は秀吉にとってどのように恩人だったのか。
天正6年(1578)10月、荒木村重が信長を裏切って有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城したときのこと。有岡城は難攻不落の城だった。城下町全体が堀と土塁で囲まれ、北、西、南の要所に3つの砦が構えられて敵を寄せつけず、秀吉らが攻略するにも苦労が予想されていた。だが、意外と呆気なかったのは、ある武将の裏切りがあったからだった。
城自体は堅固でも、2人の与力(より大きな大名に付属させられた部将)が離脱したのが手痛かったようで、太田牛一の『信長公記』にはこう書かれている。〈高槻の城も茨木の城も堅固であるから簡単には攻め崩されまいと、荒木も家臣たちも思っていたところ、意外にも、杖とも柱とも頼りにしていた高山右近・中川清秀が織田方に寝返ってしまった〉(中川太古訳、以下同)。
高槻城(大阪府高槻市)は高山右近の居城で、茨木城(大阪府茨木市)は中川清秀の居城だった。つまり有岡城を支える周辺の拠点が、早々に敵方に落ちてしまったのだった。
そもそも村重が信長を裏切ったのは、京都の豪商、立入宗継の日記『立入左京亮入道隆佐記』によれば、清秀に背中を押されたからだという。謀反の疑いをかけられた村重は信長に弁明しようとしたが、清秀が「安土に行けば、切腹させられるに違いない。だったら摂津で信長と一戦を交えるべきだ」と強く進言したという。ところが、その清秀は村重が籠城して1週間後には、信長に寝返ってしまったのである。
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