【豊臣兄弟!】3歳で織田家当主になった信長の孫 権力者に利用され続けた「26年の短い生涯」

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織田家嫡流から秀吉政権下の一大名に

 その前に、天正10年(1582)12月20日、岐阜城で蜂起した信孝が秀吉に包囲されて降伏したのち、三法師は秀吉に引き渡された。そして、賤ヶ岳合戦後にとりあえずの修復が終わった安土城の仮屋敷に移り、当面の織田家当主となった叔父の信雄の後見を受けることになった。だが、すぐに坂本城(滋賀県大津市)へ、続いて京都へ移されるなど、権力争いをする大人の都合で振り回され続けた。

 その後、信雄と秀吉の関係が急速に険悪化し、徳川家康と組んだ信雄と秀吉による小牧・長久手合戦へと発展する。この合戦を経て、天正12年(1584)11月に信雄が和議に応じた時点で、それまで秀吉の主君だった信雄は、逆に秀吉に臣従することになり、立場が完全に逆転する。

 ただし、このとき秀吉は信雄を、正式に織田家の当主と認めたので、織田家における信雄の立場は確立された。一方、信長が定めた嫡流が継承するという路線は、こうして秀吉によって反故にされ、三法師は外されてしまったことになる。

 以後の三法師は坂本城ですごした後、天正16年(1588)、数え9歳のときに岐阜城に戻って元服し、従四位下行侍従に叙位任官して、秀信と名乗ることになった。しかし、かつて自分を散々利用した元の家臣の秀吉から「秀」の字を賜って諱(実名のこと)にせざるをえず、しかも、織田家の通字である「信」の前に「秀」を置いて、秀吉のほうが立場は上であることを、名前をもって示している、というのは、なんとも気の毒な感がある。

 いずれにしても、こうして三法師は、織田家の嫡流という貴種から、単なる秀吉の家臣に成り下がってしまったことがわかる。

高野山にも拒まれ、26歳で死去

 天正18年(1590)の小田原征伐には堀秀政の指揮下で戦っている。文禄元年(1592)に羽柴秀次の弟で岐阜城主だった秀勝が死去すると、その遺領である美濃の13万石が秀信にあたえられ、岐阜城主へと返り咲くことになった。小田原征伐で北条氏が滅亡したのち、織田信雄が家康の旧領への移封を拒否して改易されたのち、織田家宗家の当主は、いったんは信雄の嫡男が継いだようだが、岐阜城主になった時点で、ふたたび秀信が織田家宗家の当主になったと考えられている。

 その後、文禄2年(1593)には従三位中納言に昇進し、秀吉政権のもとで宇喜多秀家や小早川秀秋らと並んで優遇されてはいた。とはいっても、所詮は秀吉の家臣であった。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦を迎えると、石田三成から、勝利すれば美濃と尾張(愛知県西部)の2カ国を分けあたえる、という条件で勧誘され、西軍にくみしてしまう。そして美濃へ侵攻してきた東軍を食い止めようとして敗戦し、岐阜城に籠城したのち降伏している。このとき重臣38人が切腹し、秀信自身は出家して高野山で修行することになった。

 ところが、かつて祖父の信長が高野山を攻めたことが原因で、最初は入山が許されず、2カ月ほど待たされている。入山後もさまざまな迫害を受けた末、慶長10年(1605)、高野山を下って山麓で暮らすことになった。だが、それからわずか20日で死去した。数え26歳だった。

 天下人の地位を継承する立場にありながら、幼児期から大人の都合で振り回され、死の直前まで翻弄され続けた生涯だった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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