【豊臣兄弟!】3歳で織田家当主になった信長の孫 権力者に利用され続けた「26年の短い生涯」

国内 社会

  • ブックマーク

3歳の三法師擁立は既定の事柄だった

 織田信長(小栗旬)と嫡男の信忠(小関裕太)が本能寺の変で命を落としたのち、織田政権のあらたな体制を決めるために、天正10年(1582)6月27日に清洲城(愛知県清須市)で開催された清須会議。会議を前に羽柴秀吉(池松壮亮)は、信忠の子で信長の嫡孫にあたる三法師(清水伊織)を、織田家の後継者にすることを提案した。そのうえで、秀吉、柴田勝家(山口馬木也)、丹羽長秀(池田鉄洋)、池田恒興(堀井新太)の宿老4人が、それぞれの強みを活かしながら三法師を後見するという構想を示した。

 翌日の評定(会議のこと)は秀吉の提案どおりに進み、それから数日後、京都の妙覚寺で三法師の初お目見えが行われた。居並ぶ武将たちのあいだに秀吉の姿が見えず、勝家らが不審に思っていると、奥から秀吉が、寧々(浜辺美波)らがつくった小袖を着せられた三法師の手を引いて現れた。そして宣言した。「これからは織田家筆頭家老となったこの羽柴秀吉が、ここにいる者たちとともに力を合わせて、三法師様をお支えいたしまする」。

 秀吉が勝家以下の織田家の宿老たちを出し抜いた瞬間だった。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第30回「清須会議」(8月9日放送)。

 だが、第31回「これで、お別れにございます」(8月16日放送)では、安土城(滋賀県近江八幡市)に入っていた三法師を、信長の三男の信孝(結木滉星)が、自身の居城となった岐阜城(岐阜市)に連れていってしまう。本能寺の変後、中枢部が焼失した安土城が修復されるまで、自分が保護するというのが信孝の言い分だが、秀吉は、信孝が三法師をかかえ込んで政権を主導するつもりだ、と判断した――。

 豊臣兄弟を主役にしたドラマだから、秀吉が清須会議をリードし、傀儡として三法師を立て、政権を簒奪しようとしたように描くのも仕方ない。だが、実際には、この時点では必ずしも秀吉が一人勝ちしたわけではなかった。三法師は数え歳で3歳だったとはいえ、彼が織田家を継ぐことは、宿老たちもはなから了解していることだった。

信長の後継争いのなかでひたすら翻弄された

 本能寺の変が起きたとき、三法師は父である信忠の居城で、自身が生まれた場所でもある岐阜城にいたが、変後は美濃(岐阜県南部)の明智側の勢力から守るために、清洲城に避難させられていた。つまり、織田家の宿老たちは織田家の後継者である三法師がいるからこそ、清洲城に集まったのである。生前の信長は早くから織田家の家督を信忠に譲り、ほかの兄弟との差を明確にし、嫡系が家を継承することを強くアピールしていた。三法師が織田家の家督継承者だというのは、信長が定めていたことだった。

 一方、信長の次男の信雄と信孝は、それぞれが三法師を後見する「名代」の地位に自分がふさわしいと主張して譲らなかったので、この2人を外さないと織田家が分裂する恐れがあった。したがって、宿老4人の合議体制は合理的な選択ではあった。

 それからもうひとつ。三法師は織田政権の拠点である安土城に入ることが決まったが、焼失した中枢部が修復されるまで、信孝の居城となった岐阜城に滞在することになった。これは『豊臣兄弟!』で描かれるように、信孝が勝手に行ったことではなく、清須会議における決定事項だった。ただ、その後、三法師を自分の庇護下に置いた信孝と、信孝の発言力が増すことを嫌った秀吉の利害が、衝突するようになっていった。

 ここから先の三法師は、信長の後継争いが激化するなかで、ひたすら翻弄された感がある。秀吉は安土城の修復を急がせたが、信孝は三法師を手放さず、京都近郊に山崎城(京都府大山崎町)を築くなど、清須会議の取り決めを無視した行動が目立つ秀吉を、非難するようになった。そして次第に、やはり秀吉の独断専行に不服な柴田勝家との連携を強めたが、すると秀吉は、信長の次男の信雄を、三法師が成人するまでの織田家の暫定的な当主に据え、三法師を手放さない信孝と、信孝と連携する勝家を、謀反人とみなして討伐の対象にした。

 この対立が天正11年(1583)4月の賤ヶ岳合戦に発展し、勝家および信孝の滅亡へとつながっていった。

次ページ:織田家嫡流から秀吉政権下の一大名に

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。