原爆で残骸の山になっても焼けなかった!あと一歩で「不屈の世界遺産」になっていた広島城天守
残骸があれば旧材を使って再建できた可能性
爆心地から北北東に400~1200メートルほどの位置にあった広島城では、天守と付属する東走櫓のほかにも、本丸の下段に残っていた裏御門の一部と中御門、二の丸の表御門、平櫓、多門櫓、太鼓櫓などが、やはり一瞬にして失われた。
広島市編『広島原爆戦災誌』第二巻には、原爆が落とされた瞬間、天守北方の陸軍幼年学校内にあった軍医部分室から退出して校門を出ようとしていた、増本春男衛生上等兵による次の目撃談が載せられている。〈モウモウと舞い上がる砂塵のなかで、息のつまるような一瞬、聳え立つ五層の天守閣の崩れ落ちるもの凄い音が聞こえてきた。それはちょうど、山頂から無数の木材が、一度に転げ落ちて来るように、ドドドドー、ドドーと不気味に地面に響き伝わった〉。
いま挙げた天守以外の建造物は、門も櫓も崩れたのに続いて炎につつまれた。ところが、天守と東走櫓は、〈無数の木材が、一度に転げ落ち〉た後、焼けることはなかった。
平成28(2016)年の熊本地震では、熊本城に現存する櫓など、重要文化財に指定されている木造建造物のいくつかが、石垣もろとも倒壊し、残骸の山となった。しかし、それらは一度崩れながらも、できるかぎり旧部材を使って復元されるのを待っている。また、昭和23(1948)年に発生した福井地震では、丸岡城(福井県坂井市)の天守が石垣ごと完全に倒壊したが、主要部材の7割以上を再利用して昭和30(1955)年に再建された。現在も重要文化財に指定され、「現存12天守の一角」を占めている。
だから世が世なら、広島城天守も旧材を使って再建できたと思われる。だが、天守台の石垣やその周囲に、しばらくのあいだ無惨な姿をさらしていた天守の残骸の山は、翌昭和21(1946)年11月に撮られた写真では、跡形もなくなっている。その間、いったいなにがあったのだろうか。
広島の人たちが生きるために利用した
昭和38(1963)年8月2日付の中国新聞には、次のような文章が載っていた。〈広島市教委の資料によると、昭和21年6月、佐伯郡水内村の人に天守の松角材五千本、杉の立ち木三十四本を譲渡〉。『広島市四百年』にも、家具製造業者が、天守の残骸である木材の多くを払い下げてもらって製品化した、という話や、食糧事情を改善するために、木材が燃料として製塩業者に払い下げられ、国宝が塩になって市民の糧になった、といった話が紹介されている。
要するに、バラックなどの仮の家屋を建てる建材になり、火を焚くための薪になり、家具の材料になり、ということを重ねているうちに、すっかりなくなってしまった、ということのようだ。
毛利輝元は天正16(1588)年夏にはじめて上洛し、秀吉の聚楽第や大坂城を見て、大きなカルチャーショックを受けたとされる。原爆で倒壊した天守は、輝元のその経験を抜きには語れない建築だった。輝元がみずからの体験をもとに、秀吉の天守を模倣した可能性が高いのである。また、文禄元(1592)年4月、朝鮮出兵の拠点として築城した肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に向かった秀吉は、途中で広島城に立ち寄っている。天守はこのときまでに完成していた可能性が高く、そうであれば秀吉もその姿を眺め、もしかしたら内部に入ったかもしれない。
そんな天守が、原爆で倒壊後も部材は残りながら、上述のように失われてしまったのは残念である。しかし、被爆後の厳しい状況下で、広島の人たちが生きるために利用したのであれば、だれも責めることはできない。
失われた天守は昭和33(1958)年、鉄筋コンクリート造で外観復元されたが、コンクリートの劣化や設備の老朽化などから、安全面を考慮して令和8(2026)年3月22日をもって閉城し、内部の公開を終えた。現在、広島市は今後の整備方法を検討しており、木造復元が最有力との見解が示されている。実現した場合、完成は最短でも令和31(2049)年度と想定されている。





