原爆で残骸の山になっても焼けなかった!あと一歩で「不屈の世界遺産」になっていた広島城天守

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戦争で失われた7つの天守

 いまから81年前の昭和20(1945)年、日本中の都市が米軍機によって上空から焼夷弾を落とされ、焦土と化した。大都市の多くは城下町で、その真ん中には城があったため、城が受けた被害も大きかった。「現存12天守」という言い方がある。全国の城に江戸時代以前に建てられた12棟の天守が現存するのだが、昭和20年5月までは、20棟の天守が現存していた。ところが、8月15日の終戦までに7棟が失われたのである(北海道松前町の松前城は、戦後の昭和24年に失火で焼失した)。

 大都市ほど空襲の被害は大きかったが、それは大都市に構えられた大城郭ほど被害に遭った、ということでもあった。

 まず5月14日未明、名古屋大空襲で名古屋城(名古屋市中区)の5重5階の天守が焼失した。徳川家康の命で建てられた天守で、木造の本体だけで高さが36.1メートルあり、3代将軍家光による江戸城(東京都千代田区)の3代目天守、徳川幕府が再建した大坂城(大阪市中央区)の天守に次ぐ、史上3番目の規模だった。しかも、延べ床面積では史上最大だった。

 岡山市内の73%が焼失した6月29日の大空襲では、岡山城(岡山市北区)天守が焼け落ちた。5重6階のこの天守は、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦前に豊臣家の五大老のひとり宇喜多秀家が建てたもので、織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)の天主や、豊臣秀吉の大坂城天守の面影を色濃くとどめる貴重な遺産だった。

 7月9日には、名古屋城と並んで徳川御三家の居城だった和歌山城(和歌山市)の天守が炎上した。3重3階の大天守を中心に小天守や櫓が長屋型の多門櫓でつながれ、それら一連が残っていたが、すべて焼失した。この天守は嘉永3(1850)年に再建された、比較的「あたらしい」建築だったが、7月29日に炎につつまれた大垣城(岐阜県大垣市)の4重4階の天守には長い歴史があった。元和6(1620)年に大きく改修されてはいたものの、創建時期は関ヶ原合戦以前にさかのぼる可能性が高かった。

広島城天守は焼けなかったが残骸の山に

 大垣城が焼失した時点で、もう終戦まで半月余りだったが、その後、さらに3つの天守が失われている。8月2日の水戸空襲では、やはり御三家の城、水戸城(茨城県水戸市)の三階櫓が焼け落ちた。3重5階のこの建築は、名称こそ「三階櫓」だったが、水戸城のシンボルである事実上の天守だった。

 8月8日には、広島県福山市が大量の焼夷弾を落とされて火の海になり、福山城の5重5階の天守が焼失した。高さ26メートルあまりのこの天守は元和8(1622)年の建築で、進化を遂げてきた天守建築の「完成形」といわれる合理的な構造をもっていた。しかも、防備が手薄な北面には、大砲などによる攻撃にも耐えられるように、壁面全体に鉄板が貼られているなど、唯一無二の天守だった。

 いま挙げた6城のうち、名古屋城、岡山城、福山城は、今日まで残っていれば、まちがいなく国宝に指定されていただろう。名古屋城は世界遺産に登録されていたと思う。

 だが、これで終わらない。昭和20年に米軍の攻撃によって失われた天守は、もう1棟あった。ただし、その天守は焼失したわけではなかった。8月6日午前8時15分、上空で炸裂した原子爆弾の爆風によって倒壊した広島城天守である。燃えこそしなかったが、一瞬にして残骸の山になってしまった。

 毛利輝元が築いた5重5階のこの天守の外観は、秀吉による大坂城の天守、または聚楽第(京都市上京区)を模したものと考えられている。建築年代は岡山城よりさらにさかのぼる可能性が高く、きわめて貴重な天守だった。昭和6(1931)年には、当時の国宝保存法による国宝に指定されていた。現在まで残っていれば、もちろん今日の国宝に指定されていただろう。

 原爆投下後という特殊な状況下でなければ、焼けていない以上、旧材を使って復元することも可能だったかもしれない。いっても仕方ないことだが惜しまれる。それができていれば、原爆に遭いながらも残った不屈の木造建造物として、世界的に注目されたかもしれない。

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