職員も「見たことがない」 一般公開10年「迎賓館」建設に使われた鉄道レール 鉄道と接遇施設の知られざる関係

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線路のレールを再活用

 村野は迎賓館本館の大改修にあたり、相当な苦労を強いられた。政府が威信をかけた建物だけあって、その躯体は堅牢だった。昭和の大改修では、最新の空調を導入するために壁に穴を開ける必要が生じたが、特殊な工具を使用しなければ壁に穴を開けることは難しかった。これは大地震でも倒壊しないように、構造材に多くの鉄を使用したことによる。

 日本で初めて官営の製鉄所が操業したのは1880年で、官営八幡製鉄所が稼働するのは1901年。大量の鉄材を調達するのは相当に大変な作業で、その多くは海外に頼った。輸入した鉄は十分な量を確保できた。

 それでも建材の有効活用という観点から、不要になった線路のレールを譲り受けて再活用するといった、省資源化の工夫を凝らした。残念ながら、再活用されたレールは構造材のため直に見学できない。職員たちも「実際に肉眼で見たことはない」という。

 迎賓館は2009年に本館が国宝に指定され、正門などもこれに含まれる。以前、迎賓館の館長(当時)や職員らを取材した際には、国宝としての価値は、建物本体だけではなく、ドアや壁といった建物と一体をなす内装や装飾にも及ぶとの見解だった。

 構造材に使われているレールも同様である。目で見ることや手で触れることは叶わないが、レールが国宝に指定されているのは日本全国でもここだけだろう。国宝という文化財だから、レールがどこで使用されていたのかといったことを調査・研究する必要性も出てくるだろうが、国宝を損傷させることもできないため、調査・研究は進まない。

幻の接遇施設

 迎賓館は明治後半に建設されたが、明治新政府はそれより早く海外から訪日する賓客を接遇する必要性を感じ、接遇施設を計画していた。それが、明治半ばまで浜離宮恩賜庭園内にあった延遼館だ。

 明治新政府が発足した時期は、まだ幕末・維新の混乱が完全には収束しておらず、情勢が安定していなかった。万が一、賓客に危害が加えられることがあったら、政府の面目は丸潰れになる。特に新政府を悩ませたのが宿泊所だった。

 そこで江戸時代まで将軍家の庭園として使用されていた浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)の石室を接遇施設に転用することを発案。浜御殿が選ばれた理由は、都心部からアクセス至便であること、土地を買収する必要がなかったこと、海沿いに面しているのでセキュリティ面でも安心なことといった事情があった。

 延遼館は一般人の立ち入りは基本的に禁じられていた。それでも、1872年に日本初の鉄道が開業すると、その祝賀行事の式典会場として一般開放された。式典では延遼館の庭で大道芸人が芸を披露し、庭で食事が振る舞われたなど不特定多数の一般人が出入りしている。

 外交上も重要な役割を果たしていた延遼館は、1883年に鹿鳴館が竣工したことで事実上の役目を閉じ、いつの間にか取り壊された。延遼館の記録は明確に残されておらず、現在も解明されていない謎が多く残る。

 幻の接遇施設として語られる延遼館は、東京五輪2020の開催にあたって復元する計画が持ち上がったものの、見送られた。

 一方、迎賓館は関東大震災や戦災を免れ、戦後は国立国会図書館に使用されるなど紆余曲折を経たが、文化財として現在も多くの参観者を魅了する。

 日本の接遇外交を支えた2つの施設は、奇しくも令和に至って大きく明暗を分けることになった。

小川裕夫/フリーランスライター

デイリー新潮編集部

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