絶対プロになれないと思っていたら…「歌ってみたら?」高橋幸宏に見いだされた高野寛、デビューまでの軌跡
最初はベーシスト
同級生と組んだバンドでは当初、ベーシストだった。後の経歴を考えると意外である。
「リードギターをうまく弾ける気がしなかったので。YMOに憧れていて、ギターでヒーローになりたいというより、細野晴臣さんのことが何となく頭にあったのかも。でも、機材を買うお金もないし、何よりYMOって意外と曲が難しい。だから普通にハードロックをやったりしていました。最初はクイーンやポリスのコピーで」
やがてオリジナル曲を演奏するようになり、コンテストにも応募した。
「テープ審査で予選落ちでした(苦笑)。仲間と入り浸っていた楽器店が浜松市にあり、そこのお兄さんがすごく気さくで『お前ら絶対プロになんかなれないよ』と軽口を言うんです。高校生は大人の言うことを信じますし、コンテストでの予選落ちもあって、自分はプロにはなれないと思っていました」
この頃はボーカルが受験のために抜け、高野が歌うことになったが、次第に人前で歌うことに抵抗はなくなっていた。
「ただ歌うことにカタルシスはなかったなあ。歌で注目を浴びたいという自己顕示欲もなかったし」
芸大に進むも苦悩の日々
高校は進学校だったが、ついていけず、大学受験では第1志望に落ちた。東京で浪人生活を送ったものの、予備校でも授業の内容が分からず、現実逃避で文庫本を手あたり次第に読んでいた。
「一番感銘を受けたのは夏目漱石の『こころ』。ほかにも、三島由紀夫の文体や安部公房の世界観が好きで、谷崎潤一郎にもハマりすぎて、読書しているうちに電車を乗り過ごしたことも。このときに得たボキャブラリーが後の作詞にもつながりました」
結局、大阪芸術大学に進み、ゆくゆくは機械と音楽という二つの好きなものを両立させる仕事をしたいと考えていた。
「楽器メーカーやエンジニア関係を考えていましたが、バンドに熱中してしまい、学業はすっかり疎かに。本当に成績が悪かった。自分は理系だと思っていましたが、楽器は自作できてもその理論が分からない。どんどんドロップアウトしていく感じでした」
大学では友人たちといくつかのバンドを組む傍ら、本格的な宅録を始めた。
「トッド・ラングレンに憧れ、1人で機材を揃えて、本格的に録音を始めました。今でこそ宅録という言葉がありますが、当時は結構珍しかったんじゃないかな。高校の頃から坂本龍一さんのラジオを聴いていたので、1人で音楽を作る面白い人たちが全国にいることは認識していました。テイ・トウワ君なんかはその1人。自分もいつかそういうところに食い込みたいと思っていました」
だが作品をあらゆるコンテストに送るも受賞はならず。「やっぱりプロにはなれないのかな」と諦めかけていた。
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