【豊臣兄弟!】秀吉、秀長、光秀の城に「漢字3文字」の意外な共通点! 酷暑のもとでも楽しめる城歩きの極意

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太平洋戦争時の金属供出のよう

 福知山城の転用石は五輪塔の下部の地輪が65%を占め、宝篋印塔の基礎が11%で続く。ほかに石仏、笠塔婆、石臼、燈籠などがあり、年号が刻まれているものは、古いのが延文4年(1359)、あたらしいのは光秀が丹波攻めに乗り出した天正3年(1575)。光秀が福知山に入って以降のものはない。

 とくに天守台の付櫓周辺では、夥しい数の転用石を見ることができる。付櫓の石垣南面や天守台の南東角の付近は、五輪塔の地輪や宝篋印塔の基礎がくどいほど積まれている。東面もすごい。とくに隅角部は塔の地輪や基礎など、四角く加工された転用石が選んで使われている。それらの石は天守内部からも、窓を通して覗き見ることができる。

 むろん、彼らの主君だった織田信長も、転用石を数多く使った。安土城(滋賀県近江八幡市)は、城が築かれた安土山や、すぐ近くの繖山から、湖東流紋岩が多く産出したため、それらを中心に積まれているが、それでも大手道の階段などに、近隣の寺から集められたと思われる石仏や五輪塔、墓石などが、数多く使われている。

 宗教的な権威を否定する目的があった、という主張もあるが、いかがなものか。信長は政治的および軍事的に対立する仏教勢力は容赦しなかったが、自身は仏教に帰依し、ことさらに宗教的権威を敵に回したわけではない。それより、とにかく大量の石材が必要だったので、当時の人々はすべて差し出すしかなかった。先の大戦時の金属類回収に匹敵するようなかたちで、石材がかき集められたのだろう。

 城がいかに周囲の犠牲のうえに築かれたか。転用石はそんなことに思いを馳せる材料にもなる。この夏、まずはゲーム感覚で楽しんでみてはいかがだろうか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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