【豊臣兄弟!】秀吉、秀長、光秀の城に「漢字3文字」の意外な共通点! 酷暑のもとでも楽しめる城歩きの極意

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秀吉の大坂城は転用石の山だった?

 兄の秀吉が大坂城(大阪市中央区)を築きはじめたのは、秀長が大和郡山城に入る2年余り前からで、時代はほぼ共通する。実際、秀吉も「転用石」を大量にもちいたようだ。

 もっとも、秀吉の大坂城は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で灰燼と帰して以後、徳川の手で地中に埋め尽くされてしまった。本丸を中心に場所によっては10メートル以上も盛り土され、徳川将軍家の力を示すために、豊臣時代をはるかに凌駕するスケールで築かれたのが、いま見ることができる大坂城である。

 一方、秀吉の大坂城はいまも地下に眠っている。そして令和7年(2025)4月、いまの大坂城本丸の「大阪城天守閣」の南東に、「大坂城豊臣石垣館」がオープンした。ここでは秀吉の大坂城本丸内の、詰の丸南東隅の石垣を一部だが鑑賞できる。しかも、ひんやり涼しい地下で冷房も完備されているから、夏場に訪れるのにうってつけだ。

 徳川時代の石垣は規格化された築石が積まれ、隅角部を強固にするために、直方体の石の長辺と短辺を交互に積み上げる「算木積」が採用されている。それとくらべると、「豊臣石垣館」で見ることができるのは、自然石を積んだ素朴な石垣だ。そして、隅角部は算木積が完成しておらず、代わりにさまざまな転用石が積まれている。

 隅角部の大きな石材は、一番上のものが古墳時代の石棺の未完成品といわれる。そこから下の3つの石は円形の柱座が掘り出され、古代寺院の礎石だとされる。間詰石にも石臼や石塔などの一部が使われている。ここに展示されている石垣はごく一部なのに、これほど転用石が多いのだから、秀吉の大坂城はまさに転用石の山だったのだろう。

ほぼ同時期に整備された秀吉と光秀の城

 転用石は世界遺産の姫路城(兵庫県姫路市)でも見つけられる。この城は関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)から池田輝政が築いたことで知られるが、それ以前にも中枢部の姫山には、天正8年(1580)から秀吉が築いた城があった。しかも、秀吉が大坂城に移って以降は、秀長が入城している。

 じつは池田輝政は、姫路城の中枢部においては、秀吉が自然地形に逆らわずに築いた城を踏襲している。だから曲輪(城内の整地された区画)が複雑に連なり、通路は迷路のように折れ曲がっており、秀吉時代の石垣も良好に残っている。だから転用石も見つかる。

 入城料を支払って最初に通るのが菱の門で、「いの門」、「ろの門」と続いた先にある「はの門」は、柱の礎石に石燈籠や五輪塔の下部が転用されている。また、天守に登ったのちに通る備前門の石垣には、横穴式古墳の石棺が積まれている。

 秀吉の姫路城と同じ織田政権下で整備されたのが福知山城(京都府福知山市)である。この城は天正7年(1579)に丹波(京都市中部、兵庫県北東部)を平定後、明智光秀が大きく手を加えた。そして本丸には、光秀時代の石垣が残り、とくに天守台には、五輪塔や宝篋印塔などからの転用石が大量に積まれている。大和郡山城の転用石が、堀の対岸に積まれ、間近には見られないのに対し、福知山城では目の前まで近づける場所に積まれている。観察するのはもってこいだ。

 すでに述べたように、この時代は石材を産地から切り出すシステムが未整備で、しかし、短期間に築城する必要があったので、近隣の石材が片っ端から集められたと考えられる。築城時に光秀が近隣から石塔を集めた、という伝承も残っている。

 昭和61年(1986)の天守再建時、天守台の石垣に181個、天守台内部から出土したものが321個、計502個もの転用石が確認されたという。本丸の片隅に建つ二の丸から移築された銅門番所(現存)の南側には、石垣内部から見つかった転用石が集められている。

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