【豊臣兄弟!】秀吉は「山崎の戦い」に間に合っていなかった? 信長の仇討ち最大の功労者は意外な武将だった
「豊臣兄弟!」の展開はほぼ通説どおりだが
備中高松城(岡山市北区)を水攻めしている最中だった羽柴秀吉(池松壮亮)は、織田信長(小栗旬)が討たれたと知らされると、大急ぎで毛利方と和議を結び、大軍で京都へと引き返した。本能寺の変が起きたのは天正10年(1582)6月2日の未明。秀吉がそれを知ったのは3日の夜。その後、11日には尼崎(兵庫県尼崎市)に到着すると、弟の小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)とともに、信長の敵討ちに明智光秀(要潤)の首を獲る覚悟を決めた。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第28回「急げ、秀吉!」(7月19日放送)。
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第29回「天下への道」(7月26日放送)では、6月13日、山崎の地(京都府大山崎町、長岡京市、大阪府島本町一帯)で織田方と明智方が激突する。織田方の総大将は信長の三男の信孝(結木滉星)だが、むろん、事実上指揮を執っているのは秀吉で、小一郎は別動隊を率いる。明智軍は次第に追い詰められ、光秀は重臣の斎藤利三(内藤剛志)と別れ、数人の家臣を引き連れて坂本城(滋賀県大津市)に戻ろうとする。だが、その途中で命を落とす。
ここまでの展開に通説と違う部分はあまりない。秀吉は4日に毛利方と和睦を結ぶと、翌5日から進軍を開始し、12日には摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)を治める池田恒興らと合流。13日には山崎に布陣し、光秀の軍を破った――、というのがこれまでの通説だ。このスピードは当時の常識に照らして、それほど速いともいえないが、なにしろ大軍での移動だから、光秀は秀吉がこれほど短時日に戻ってくるとは予想しておらず、かなり動揺したとされる。
ところが、あらたに発見された史料によれば、秀吉は光秀の軍を破ったどころか、そもそも、山崎合戦に間に合わず、参戦できなかったという。歴史が塗り替えられようとしているのである。
古書店で入手した書状
その史料とは、秀吉が山崎合戦の当日である6月13日の日中に、山崎から12キロほど離れた富田(大阪府高槻市)でみずから書いたと思われる書状で、配下の小寺職隆、すなわち黒田官兵衛孝高の父に宛てられている。中京大学の馬部隆弘教授が、令和6年(2024)に古書店で入手したという。
そこには「明日、西岡に出陣し、陣を構える」と書かれていた。西岡とは、光秀が山崎での敗戦後に逃げ込んだ勝龍寺城(京都府長岡京市)がある地域で、たしかに光秀は合戦前日の12日にも、池田恒興らによってこの城に追い込まれていた。
そこで秀吉は、翌14日に勝龍寺城を攻めるべく、陣を構えようと考えたのだろう。ところが予想に反して、光秀は13日に城から撃って出てしまったようだ。この書状にあるとおり、13日には秀吉がまだ富田にいたのであれば、山崎で光秀の軍と戦ったのは、池田恒興や中川清秀、高山右近ら、摂津衆(摂津国を治める国衆たち)だったことになる。そして光秀は恒興らの軍勢に敗れ、坂本城に向かう途上で落人狩りに遭って命を落とした――。
もしこの書状どおりなら、秀吉も秀長も光秀とは戦っていない、つまり、信長の仇を討てていないことになるのである。備中高松から富田まで「中国大返し」したものの、肝心の光秀との決戦には間に合わず、参戦できていなかったというわけだ。
もちろん前述のように、秀吉が上京するスピードが予想より速かったことで動揺した光秀が、撃って出た可能性もある。だから、光秀討伐における秀吉の功が小さかったとはいえないとしても、秀吉が山崎で光秀の軍を破った、という通説は否定されてしまう。
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