【豊臣兄弟!】秀吉は「山崎の戦い」に間に合っていなかった? 信長の仇討ち最大の功労者は意外な武将だった

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宣教師が書き遺していた秀吉の遅延

 この書状に書かれた内容が史実だと確定したわけではない。しかし、これが見つかる以前から、秀吉が「間に合わなかった」と記された史料はあった。イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』である。そこには次のように書かれていた。

「明智は都から一里の鳥羽と称する地に布陣し、信長の家臣が城主であった勝竜寺と称する、都から三里離れた非常に重要な一城を占拠していた。彼はその辺りにいて、自分の許に投降して来る者たちを待機するとともに、羽柴の出方を見きわめようとした。(中略)同国(註・摂津国)の三名の重立った武将は、羽柴がもはやさほど遠くないところまで戻って来ているとの希望のもとに出陣し、軍勢を率い、山崎と称せられる非常に大きく堅固な村落まで進んだ」(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)

 3名のあいだには、中川清秀が山の手に、池田恒興が淀川沿いに進軍し、高山右近は山崎の村に留まるという協約があったと記され、こう続く。

「ジュスト(註・高山右近)は村に入り、明智がすでに間近に来ているのを知ると、まだ三里以上も後方にいた羽柴に対し、急信をもってできうるかぎり速やかに来着するようにと要請した。(中略)右近殿は、羽柴の軍勢が遅延するのを見、自ら赴いて現下の危険を報告しようとしたが、まさにその時、明智の軍勢が村の門を叩き始めた。そこで右近殿はこの上待つべきではないと考えた」

 右近は1,000名余りの兵を率い、敵に突撃したという。

「この最初の衝突が終わると、ジュストと間隔を置いて併進して来た二人の殿たちが到着した。そこで明智方は戦意を喪失し、背を向けて退却し始めたが、敵方がもっとも勇気を挫かれたのは、信長の息子と羽柴が同所から一里足らずのところに、二万以上の兵を率いて到着していることを知ったことであった。だがこの軍勢は幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、予想どおりに到着しなかった」

 秀吉も総大将の信孝も山崎に到着できず、実際に戦ったのは池田恒興や中川清秀、高山右近らだった。秀吉の書状と一致する内容を、フロイスはちゃんと書いていた。ところが研究者たちは、フロイスが「キリシタンの高山右近の活躍を誇張するために、デマを書いた」と捉え、無視してきたのである。

清須会議でいきなり存在感を示した理由

 だが、デマが書かれたのは、むしろ日本側の史料だったのではないだろうか。馬部教授によれば、合戦から4カ月後に書かれた秀吉の書状には、自分が先に山崎に着いたことにして、遅参した事実を隠そうと修正した形跡があるという。秀吉が隠したい事実を周囲が書けたわけがないが、日本の権力者に忖度する必要がない宣教師だけは遠慮なく書いていた、ということだろう。

 秀吉が山崎に到着できず、光秀の軍と戦ったのが池田恒興らだとすると、もうひとつ謎が解ける。『豊臣兄弟!』の第30回(8月2日放送)のサブタイトルは「清須会議」で、これは光秀が斃れて2週間ほどの6月27日、清洲城(愛知県清須市)で開かれた、織田政権のあらたな枠組みを定める会議のことを指す。ここで決められたのは、信長とともに討たれた信忠の嫡男、三法師を織田家の後継ぎに据え、政権は柴田勝家、丹羽長秀、秀吉、池田恒興の4人による話し合いで運営する、というものだった。

 だが、この4人のなかで恒興だけは、信長の家臣のなかで序列が下で、せいぜい中堅の位置づけだった。それがなぜ3人の宿老に伍しているのかといえば、山崎合戦で秀吉がいない穴を埋めたからだったと思われる。しかも、3人の摂津衆の残り2人、中川清秀と高山右近を、光秀にくみしないように説得したのも恒興だといわれる。

 だとすれば、光秀討伐の最大の功労者は、『豊臣兄弟!』では堀井新太が演じる池田恒興だ、といっても過言ではない。恒興自身はその後、小牧・長久手の戦いで命を落とすが、池田家は名立たる大大名として、明治維新まで存続することになった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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