土俵際でジャンプした「大の里」は横綱として“姑息”か? 改めて問いたい「死に体」の判断基準…大の里は「負け」でも、豪ノ山を「勝ち」とすることへの違和感

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豪ノ山は「勝者」に価するのか

 もうひとつ、別の視点から問いかけよう。

 土俵際で大の里は上に跳んだ。豪ノ山は土俵に這いつくばった。この時、自分の身体をコントロールできていたのはどちらだろう?

 大の里はあの巨体を自分の意志で動かしていた。豪ノ山は、前に倒れる勢いをどうにもできず、自己コントロールは失っていた。

 勝負審判たちは、「戻ってこられるか?」という問いかけを豪ノ山にはしなかった。果たして、大の里が上に跳んだ時、豪ノ山は手をつかず立ち上がれる状態だっただろうか?

 大の里の負けは認めよう。だが、だからといって、豪ノ山は「勝者」に価するのか?

 大の里の体がないと認定するなら、その時点で豪ノ山の体もまた「なかった」ではないか。それならば〈取り直し〉が妥当ではなかったかと私は考える。

 この点を曖昧にしておくと、力士たちが土俵際や勝負の際で最後までどう粘るべきかの指針がわからず、混乱することになる。

 ネットの書き込みを見ると、「審判長の横綱へのお灸ですか?」という論調がけっこう多かった。「上に跳んで時間を稼ぐのは横綱として姑息だ」との意見もあった。多くのファンが、ルールを素直に適用すれば、先に土俵に落ちた豪ノ山の負け、大の里は命拾いが妥当と考えているように感じた。が、横綱に対する強い指導のために、審判長は大の里にお灸をすえた。そういう上下関係を、なんとなく理解できるのが相撲界の空気でもある。

 しかし、明確な規程・基準は大切だ。かつて三代目若乃花、二代目貴乃花は、師匠(父)の厳しい教え、「投げを打たれても手を着くな」を厳守し、顔から土俵に落ちて顔に傷を負ったことがある。それは「執念」と礼賛された。一方で、空中に跳ぶ行為は「時間稼ぎで姑息」と糾弾される。イメージ的にわからないでもないが、最後まで勝利への執念を燃やし続け、決して勝負をあきらめない姿勢が非難されるのは力士に対する冒とくのようにも思う。最後まであきらめない、だからこそ、宇良や藤ノ川が数々の逆転劇を演じ、ファンを沸かせているのだ。

 それに、土俵際で咄嗟に跳びあがった大の里を、改めてご覧いただきたい。189kgの巨体であの高さまで軽々とジャンプする横綱を、長い大相撲の歴史の中で誰が見たことがあっただろう。あの身のこなしは、当たり前に見られる光景ではなかった。私は、不利な体勢になると思わず相手の首に手をかけ引いてしまう大の里の悪癖に言葉を失いながら、その軽快な身のこなしには驚嘆し、だからこそ輝きを取り戻してほしいと切に願う。

スポーツライター・小林信也

デイリー新潮編集部

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