一億総「意識高い系」時代の落とし穴 「SNSで仕入れた凡庸な意見」を社会に押し付けようとする人たち

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 SNS、海外ニュース、生成AIなどで仕入れた知識を、画期的なものだと思い込んで、それを他者に押し付け、社会を変革しようとする人が増えている。しかし、そのような知識は本当に当人が思うほど優れたものなのか。

 京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は新刊『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)で、メディアからの情報に浴した大衆は、自分を一般社会の「斜め上」の存在だと錯覚し、受け売りである平凡な意見を自らの画期的な意見だと思い込んでしまうと指摘する。以下、同書から一部を再編集して紹介する。

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情報のシャワー

 今日、誰も「世間」の外に「世界」が広がっていることを無視することなどできなくなってしまった。「世間」に自閉して一生を送る人などめったにいない。実に多くの日本人が毎年海外旅行にでかけ、こちらからでかけなくとも、向こうからやってきてくれる。

 おまけにテレビや映画やSNSでいくらでも海外情報を得ることができる。われわれは常に海外情勢を連日シャワーのように浴び、映像によって世界中を旅できる。こうなれば、誰もが多少は「世界」へ身を置いたような心地よい錯覚を覚えることができるだろう。

 自宅にいても「世界の中心」にいるような気分になれる。この自己催眠が適度にきけば、誰もが気持ちよく「世間」の同調圧力を批判できるのである。

中途半端なエリート

 これが、今日のいわゆるグローバリズムという時代だ。自分の「世界」が広がれば広がるだけ、現実(リアリティ)と仮想(ヴァーチャリティ)の境界が消失してゆく。こうして、戦後民主主義のもとで一億総平等化した今日では、かつてのように、海外通のほんのひと握りのエリートだけではなく、多少、外国事情に親しんだものは誰でも、かつてのエリートのように「外国では……」とか「世界では……」といえるのである。

 その結果、一億の大衆自身が中途半端なエリートとなり、中途半端な知識人となった。エリートと大衆の距離は随分と小さくなった。少し知的な関心をもつ者なら、いくらでも「世界」の出来事についてのそれなりの知識をもち、情報を集め、自分の意見を持つようになった。

 それどころではない。本格的に生成AIが登場すれば、エリートと大衆などという区別はすっかり意味を失う。リアルなものとヴァーチャルなものという区別もまったく無意味になる。対立は、「本物の人間」対「AI」という次元へと移行するが、その区別さえ不分明となるのであろう。

「意識高い系」の大衆

 この未来談はともかく、知的な大衆の登場、もしくは、大衆の知識人化において、誰もが自分は同質構造の日本社会の平均的意見とは違っている、と考えている。自分は、同質社会日本の外部から日本を見ていると思っているわけだ。

 だが、この「意識高い系」の大衆こそ、すでに20世紀の初頭に、オルテガがまさに高度に文明化した現代の「大衆」と呼び、痛烈に批判したものであった。オルテガの「大衆の反逆」の意味は、大衆自身が大衆の本質に反逆して知識人になってしまったということなのである。この「意識高い系の大衆」は自分は独自の意見を持っていると考えてそれを主張するのだが、実はそれこそ、この同質社会で誰もが主張する平凡な意見なのである。

政治的主張になる床屋談議

 次のような日常的な例が適切かどうかわからないが、私はタクシーに乗るとよく運転手さんと話をする。すると、最近は外国人観光客を乗せる運転手さんも多く、妙に海外事情を仕入れており、ひとしきり話をした後に、「これだから日本は遅れていてね、困ったものだ。日本はみなが同じ社会だから、世界とは違うよね」と言ったりする。

 また、「世界の出来事」に詳しい人は、「いったい日本政府は何をしているんだ、これだから日本はおいていかれるのだ」などと熱弁をふるう。少し前の構造改革ブームの時など、「世界は自由な競争をしているのに、日本だけが規制で守られているからダメなんだ」と滔々と意見を開陳する運転手さんには何度も出会った。だが、構造改革のおかげで痛い目にあうのは当人なのである。

 もちろん、タクシーだけのことではない。この種の話は、飲み屋で出会った人から喫茶店の店主など、様々な場で展開されている。まさにオルテガが述べたように、「大衆は、彼らが喫茶店での話題から得た結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持つと信じているのである」。床屋談議がりっぱな政治的な主張になってくるわけだ。

独断的なエリート

 今日、人々はあちこちから知識も得るし情報も手にする。その結果、つい自分をもののよくわかった人間だと思い、自分を省みようとしなくなる。どこかで手に入れた知識からの受け売りをりっぱな政治的見解であり、この見解こそが政治を動かすべきだと考える。

 ところが、これが喫茶店や床屋であればまだしも、実は同様の事態が、まさしくエリート集団でも生じるのである。

 彼らは、まさに「海外の情報通」であり、様々な「専門家」である。要するに、人の知らないことを知っていると考えている。それゆえに、自らをこの「世間」からはみ出した存在だと感じている。彼らは、本当に「意識高い系」であるし、実際そうでなければ困る。

 世界を知っているという意味では彼らは確かにエリートであり、大衆が知らない専門的知識の独占者である。エリートという誇りを持つのは当然であろう。だがこの誇りゆえに、彼らの多くは、みずからの知識や思考の限界を知ろうとしない。それゆえ独断的になるのだ。

【関連記事】〈「外国では……」とすぐに他国の例を持ち出す人を、なぜ日本のメディアは重宝してしまうのか〉では、海外通がここまで「権威」を持つことができるのは、日本特有の背景にある――ということについて語られている。

※本記事は、佐伯啓思著『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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