嫌いな芸能人騒動で潮目が変わり…「あの」を理解するのはそもそも無理なのか 多様性のアイコンが抱える“復讐”と“痛み”
「理解」されることへの拒絶
好意を寄せてきた人気男性アーティストと親しく話すようになり、自分の人生における最優先事項が「復讐」だと打ち明けたら「復讐なんてしても意味ないよ」「そんな生き方、悲しいよ」と言われて、彼女は苛烈な反応を見せる。復讐以外にも有意義なことがあるのに気づかされ、新しい価値観を見出して幸せになっていく…といった展開が期待されるところだが。あのは「こういうことを僕に言ってくる人がいるから、僕は復讐しなきゃいけないんだ」と自戒。もっともっと復讐に注力することを自分に誓うのである。
地雷となったのは「復讐なんて」という言い回しであった。「なんて」で片付けられ、自分の全てを否定された気がしたそうだ。いやいや、それ見下してるのではなく「もっと有意義で楽しいことに目を向けようよ」という「比較」の意味合いで「なんて」という表現を使ったのだと思うのだが。しかし彼女には伝わらない。
「相手の気持ちを想像すらできない想像力に欠けた人間には僕のことなんてわかんないしわかってほしくもないし、お前のこともわかりたくないわ」となり、「そこから全員と関わることをやめた」。「改めて復讐人生をスタートさせた」「絶対こいつらより有名になってやる」「『復讐なんてしても意味ないよ』なんて絶対言わせない僕になって復讐に意味があるとこの身をもって証明する」。……咆哮とエスカレートが止まらない。
たぶん件の男性アーティストは、よかれと思って伝えた一言がここまで相手の怨嗟の源泉になったことには気づいてないだろう。気付いたところでどうしようもない。彼女の特殊な脳内の回路は、もうどんな助言を入力しても「復讐」しか出てこないしくみになっている。いじめというものは、こんなにも人ひとりの人生を破壊するものなのだなぁと、ただ切なくなる。
多様性を受け入れる側の限界
「普通」「自分らしさ」「自由」「幸せ」「無知」「居場所」「正解」「本当」「絶対」……ありとあらゆる概念を訝しみ、自分なりに構築し直して紡ぐ彼女の言葉の数々は、同じ生きづらさを抱える同世代の若者たちに刺さるだろう。しかし。自分の都合で人に一方的に不快な思いをさせた後、真摯に向き合い謝らず、「向こうも悪い」という意味合いの呟きをした後で勝手に幕引き、という騒動の際の一連の言動は、彼女が復讐を誓ってきた「いじめる側」のそれと同じなのではないだろうか。世間のほとんどはそんな彼女に対して「ふーん」の一瞥で終わりだが。彼女を信奉してきたファンには、一体どう映っているのだろうか。
今いるファンがやがて年を重ね、社会に出て、あののことを考えない日々を歩み出した後、残る彼女を想像すると切ない。30歳、40歳、50歳になったあのちゃん……。うわぁ。何かに掴まりながらじゃないと想像できないほど怖い。
ま、当の本人はきっと、今も心地よく痛みと遊んでいるに違いない。「ほらね、やっぱりうまくいかなかった」という安堵と、「ここからまた這い上がってやる!」という復讐心とを煮込みながら。成功しようが失敗しようが、彼女の心が滾らない日は、これからも永遠に訪れることはないのだろう。
ほっとくと怒るし、関わるともっと怒る。多様性は認められるべきだが、受け入れるキャパシティにも限度がある、という率直な感覚もまた、多様性のひとつとして認めてもらえないもんだろうか……。かつてないほど多様性について考えた一件、そして一冊であった。
かけがえのない我らが凡庸に、感謝。
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