【豊臣兄弟!】明智光秀はなぜ信長を討ったのか NHK大河に登場した「本能寺の変の原因」となった武将の名前

国内 社会

  • ブックマーク

長宗我部元親への処遇変更が「変事の予兆」?

 一代で四国の覇者となった長宗我部元親。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第25回「変事の予兆」(6月28日放送)には、磯部寛之が演じるこの土佐(高知県)の戦国大名が、2つの場面で登場した。

 1つ目は天正8年(1580)、信長の居城である安土城(滋賀県近江八幡市)の完成を祝う宴で、能を見事に演じたシテが面を外すと、それが元親だった。信長は、四国の切り取り(征服事業)はどうなっているかと尋ね、元親は順調に進んでいると答えた。2つ目は翌天正9年2月、信長が京都で馬揃え(名馬や精鋭部隊を集めての一種の軍事パレード)を盛大に開催したとき、女物の装束を身にまとった元親が、小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)の前に現れ、四国を平定した暁には、土佐の美味い魚をふるまうと約束した。

 元親に女装をさせたのは、この大名が幼少時、色白で姫君のように引きこもりがちだったため、「姫若子」というあだ名があった、という逸話をヒントにしたものと思われる。それはともかく、元親が四国の切り取りに熱心な様子が伝わってきたが、最後に元親にからんで明智光秀(要潤)が、なにやら悔しさを露わにする場面があった。光秀は織田信長(小栗旬)から、元親の四国切り取りを認めないと告げられ、困惑して理由を問うと、返ってきた言葉は「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」というものだった。

 この回のサブタイトルは「変事の予兆」。予兆とは、天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変のそれであるのは明らかだ。そして、信長から元親への処遇変更を言い渡されたときの、光秀の困惑した顔。ここに「変事の予兆」がありそうだと感じた視聴者は多いのではないだろうか。

長宗我部と信長をつなぐパイプ役が光秀だった

 本能寺の変といえば、大河ドラマなどでは、徳川家康の饗応に不備があって信長から手痛く叱責された光秀の怒りが募った結果……、という描き方が常道だった。しかし、近年、原因としてもっとも有力視されているのは、じつは、元親の処遇に関して光秀が板挟みになったという「四国説」なのである。「豊臣兄弟!」では、この説をベースにして、光秀の謀反が描かれると思われる。そうであるなら、その点は評価できるように思う。

 では、「四国説」とは具体的にどんな内容なのか。それを知るためにはまず、光秀と元親の関係を説明しておく必要があるだろう。

 かつて美濃(岐阜県南部)の斎藤家に仕え、信長に寝返った稲葉一鉄の家臣に斎藤利三という人物がいた。光秀が稲葉家で不遇だった利三を家臣として召し抱えると、まもなく明智家の筆頭家老にまで上り詰めた。この利三の義理の妹が、長宗我部元親の事績を記した『元親記』によれば、元親の妻だった。すなわち、元親は光秀の筆頭家老たる利三の義理の弟だったことになる。この関係があったため、織田政権において光秀は、元親の取次を務めることになったとされる。

 信長と元親の関係は、当初は良好だった。信長にとって元親は利用価値があったからである。信長は大坂の本願寺(大阪市中央区)と戦っていたが、本願寺は難敵でかなり手を焼かされた。実際、攻略するまでに10年以上を要している。というのも、本願寺は阿波(徳島県)の三好氏から物資の搬入などの後方支援を受けており、いくら信長に攻められても窮することがなかったのだ。

 そこで信長は、元親に三好氏を討伐させようと考えた。天正6年(1578)10月には、元親が四国全土を攻略することを容認し、元親の嫡男に「信」の1文字をあたえ、信親と名乗らせている。このとき取次として、信長と元親の間を取りもったのが光秀だった。

次ページ:信長にとって長宗我部元親は邪魔になったので

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。