歴史ある「宮中晩餐会」で“配膳方法”が大きく変わった理由とは? 天皇皇后両陛下ならではの「令和流のおもてなし」に脚光

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築地にあった精養軒のフレンチ

 宮中晩餐会における西洋料理がフランス料理となったのは、開国当時の国際儀礼(プロトコール)に則ったため。今も世界三大料理と呼ばれるフレンチ、中華、トルコ料理のうち、欧州を代表するフレンチが、世界のリーダーシップを握っていた欧米諸国では定番だったからである。

 国賓をもてなすため、最初から宮中晩餐会が開かれていたわけではない。明治維新間もないの1869(明治2)年、英国ビクトリア女王の次男・エディンバラ公が初めての国賓として来日したが、宮中晩餐会は催されていない。宮中では世界に通用するフレンチを振る舞えるようにするため、十分な準備が必要だったのだ。

「外国人を接待できる一流の西洋料理店が必要」とする明治政府の意向に基づき、1872(明治5)年にフランス料理店の草分けとなった築地精養軒が創業。宮中晩餐会でサービスを担当する者や日本側から出席する者は、ここで食事をしたり、給仕の見習いをしたりしながら西洋のテーブルマナーや教養を身に付けた。

 築地精養軒は「宿泊の帝国(ホテル)、食の精養軒」と並び称されたが、閉店。今も残る上野精養軒は76(明治9)年に開店した支店だ。晩餐会の料理は宮内省(現・宮内庁)が雇った仏人シェフをコーチにした料理担当者と、精養軒が派遣した料理人が担った。

 大正時代から昭和にかけて「天皇の料理番」を務めた秋山徳蔵氏は、この築地精養軒でフレンチを学び、フランスに武者修行に出た後、1913(大正2)年に初代の宮内省大膳職厨司長(現・宮内庁大膳課主厨長)となっている。

 記録に残る日本で最初の宮中晩餐会は外国公使を招いて1874(明治7)年9月22日に開かれた。十分な準備期間を経ての開催だった。パーティーの名目は天長節。明治天皇の誕生日を祝い、米、英、仏、独、伊、西、蘭、ベルギーの公使を赤坂御用地にあった赤坂仮皇居に招待し、満を持してフランス料理を振る舞った。そして81年(明治14)年10月、ビクトリア女王の孫のアルバート・ヴィクター王子とジョージ王子(後の国王ジョージ世)の兄弟を国賓として歓迎する宮中晩餐会が、完成から間もない赤坂仮皇居御会食所(移築されて今は明治記念館本館)で催された。

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