長年の恋人を「おまえに譲る」と言って、兄は一週間後に亡くなった。通夜に現れた彼女が僕に告げたこと

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兄の通夜で…

 もちろん、泰典さんにそんなつもりはなかった。不快になってそのまま店を出た。兄が死んだと連絡がきたのは、それから1週間後だった。死因は急性心不全だったが、泰典さんは「急に生きる気力をなくして、自ら勝手に心臓が止まったのではないか」と理屈に合わないことを感じていた。

「兄が死んでから、いろいろなことがわかりました。確かに兄の勤務先は有名な大企業だったけど、兄は決して出世頭ではなかった。大風呂敷を広げてばかりいて、実際には仕事のできない人間だと思われていたようです。兄自身はそれをわかっていたんでしょう。僕の前でもやけに仕事の成果を吹聴していたけど、兄自身の業績ではなかった。しかも兄は次の人事で閑職に追いやられる可能性が高かったようです。エリート意識の強い兄には耐えられなかったでしょうね」

 兄の通夜はさみしいものだった。親は亡くなっており、親戚もほとんどなく、職場の人も少なかった。学生時代の友人が数名来たが、すぐに帰っていった。誰も悼んでいない通夜に、兄自身の魂もさっさと天に昇っていって、未練ひとつないようにさえ思えた。ところがそろそろ弔問客も打ち止めだと思ったころ、あのとき話題になった兄の長年の恋人である美都里さんがやってきた。青ざめた肌がやけにきれいだったと泰典さんは言う。

「ふらふらしていましたね。彼女がいちばん悼んでくれているのだろうと思いました。焼香をすませると、彼女は僕に向かって『こういう結末か、という感じだわ』とつぶやきました。兄には、弟と一緒になってくれと言われていたと。『あなたとつきあえばよかった。私はあなたのほうが好きだったのに』とも。ただ、急に兄に死なれて、彼女も正しい判断ができない状態だったんだと思います。結局、僕はなにも言えなかった」

主のいない実家で…

 その夜、兄がひとりで暮らしていた実家に、泰典さんは足を踏み入れてみようと思っていた。美都里さんが「私も行く」と言った。主のいない実家は冷え冷えとしていた。美都里さんが、「先週もここに来たのよ、私。夜中の2時に」とつぶやく。「でも、彼は自分の欲求だけ果たして、もういい、帰ってって。そういうのもときどきあることだから気にしてなかったけど」と涙声になった。

 泰典さんが腕を支えると、美都里さんの体がぐらりと揺れてしなだれかかってきた。兄を悼みつつ、見返してやりたい気持ちもあって、彼は美都里さんの喪服を脱がせた。

 翌日の葬儀に彼女は来なかった。そして泰典さんは、兄のことは深く考えないようにしながら仕事に精進した。兄が死んだ30歳になる前に、自分の人生の道筋をつけたいという思いにとらわれ、28歳のときに同じ会社の同期から紹介された女性と結婚した。

 ***

 記事後編では、50歳になった彼が再び美都里さんを探し始め、長く封じてきた思いと向き合う姿を紹介している。

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮編集部

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