音楽で生きるために「学校もやめてしまった」 志磨遼平を突き動かしたもの

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美輪明宏の「紫の履歴書」を読んで

 バンドは、ライブハウスが少ない和歌山を飛び出し、大阪、京都、神戸のライブハウスにデモテープを送り出演し、活動範囲を広げていた。だが、“その先”にはなかなか進めなかった。

「地元では『大阪のライブハウスで演奏している』というだけでみんなからおだてられていたので、さてこの先、どうしたもんかなと思いながら18歳頃まで和歌山で相変わらずアルバイトを続けながら曲を作ったりしていました。それが、ある本に出会って居ても立っても居られなくなったんです」

 それは、美輪明宏が書いた「紫の履歴書」という自叙伝だった。書店で偶然見つけたその本に記された美輪の激動の半生に触発された。

「僕もこういうドラマチックなことをしないと、と考えて。読み終えた勢いのまま、バンドメンバーに『明日から東京に住むよ』と伝えました。メンバーはびっくりですよね」

 東京にはほぼ伝手もなかったが、その日の夜行バスに乗り、翌日には東京・新宿に降り立っていた。東京の大学に進学した昔の友人に頼み込んで泊めてもらい、しばらくして一人暮らしを始めた。

 そのうち、和歌山で同級生だったギタリストの越川和磨とベーシストの栗本ヒロコが志磨を頼って上京してきた。そこに友人のドラマーを加えてバンド「毛皮のマリーズ」は2003年に一度結成された。だが後にドラマーが不在となり、オーディションをすることになった。

「何年かけてそこらじゅうを探しても、自分たちが理想とするドラマーがどこにもいないので、一から育てるほうが早いんじゃないかという話になり、越川のバイト先にいた面白い子をスタジオに呼んだんです」

 ところがその人、富士山富士夫は特段ドラムが上手いわけでもなく、素質があるわけでもなかったという。

「もう感覚的なものです。ユーモアのセンスが合うとか。そういうことのほうが僕にとっては重要でした。そこが合ったので、一緒にバンドやろうって」

 2005年、「毛皮のマリーズ」がリブートした瞬間だった。

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 突然の退学、上京を経てようやくデビューにたどり着いた志磨遼平。第2回【「下手になったら人気が出た」志磨遼平が明かす毛皮のマリーズ解散、ドレスコーズ結成の舞台裏】では、毛皮のマリーズ、ドレスコーズでの活動などについて語っている。

デイリー新潮編集部

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