音楽で生きるために「学校もやめてしまった」 志磨遼平を突き動かしたもの

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

和歌山のスタジオでヘッドハンティング

 普通ならば、ここから学内外の友達とバンドを組んで音楽の道へ……というような話に進みそうだが、そこからの考え方も変わっていた。

「バンドを作る前に、まず学校をやめようと。音楽のために僕は生きていく。それならもう学校に通う必要もないと考えて。メンバーを探すとか、楽器の練習をするとか、そういうことよりも前にまず学校をやめました」

 高校に入学し、まだ1学期が始まったばかりでのことだった。地元の和歌山市に楽器店とスタジオが併設されている店があり、すでにその店に通い詰めている常連だった。

「よく学校をサボっては、そこの店長さんに身の上話を聞いてもらっていたんです。『学校をやめて音楽に専念したいんです』とか。それである日『ついに退学届を出してきました』って報告したら、『じゃあ、明日からうちで働くか』って言ってくれたんです。『親もずいぶん心配してるでしょ? うちで毎日ちゃんと働くって言えば、親も安心するだろうし、志磨君も音楽に専念できていいんじゃない?』と言って、次の日から店番を任されたんです」

 和歌山市のバンドマンがこぞって集うスタジオだった。

「スタジオでよく見かける人たちの中から、メンバーをヘッドハンティングしました(笑)。歳が近くて、演奏が上手いと噂になっているような人に声をかけて。そこでバンドを組みました」

 ギターはあの子が上手いらしいとか、ベースはあの子、ドラムは……と目星をつけながら、自身は曲作りに着手していた。曲のレパートリーの多彩さを武器に「僕と組んで有名になろうよ」とメンバー探しを続けた。趣味でバンドをやっているのではなく、「学校をやめてスタジオで働いている」ことから、志磨自身も一目置かれる存在になっていたこともメンバー集めに有利に働いた。

腕を組んでうーんと唸ると……曲が

 ところで、「楽器は苦手だった」と語る志磨が、どのようにして曲作りをしていたのか。

「これは今でもそうなんですが、腕を組んで、うーんと唸って、ぽんと出るっていう……。これはホントにそうとしか説明できないんです。まだ今のようにギターやピアノが弾けるわけでもなかったので、ただひたすらに『自分には曲が書けるはずだ』と思い込んでいたら、ある日ポンと曲ができた。それが今でも続いているんです。格好よく言えばメロディーが降ってくる、という感じでもありますが」

 そんなスタイルの曲作りで、「1日1曲は作ろう」と決め、カセットレコーダーに出来上がった曲を吹き込んでいく作業を続けていた。

次ページ:美輪明宏の「紫の履歴書」を読んで

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。