【豊臣兄弟!】豊臣時代の城が“真空パック” 「天空の城」は雲海上に眺めるより歩いたほうがスゴイ
豊臣時代の城の真空パック
天正10年(1582)の本能寺の変を経て、その翌年、柴田勝家を討った秀吉が本拠地を姫路城(兵庫県姫路市)から大坂城(大阪市中央区)に移すと、秀長が姫路城に入って、竹田城は配下の桑山重晴にまかされた。その2年後、秀長が大和郡山城(奈良県大和郡山市)を拠点にすると、桑山は和歌山城に移り、赤松広秀が竹田城主になった。
現在、山上には南北約400メートル、東西約100メートルにわたって、壮大な石垣が残されているが、この状態に整備したのは、秀長でなくて赤松広秀だった。秀長が城代だったころは、それなりに石垣が積まれていたにせよ、もっと荒々しい積み方で、現況より簡素だったと思われる。
一方、いま山上に残る竹田城は、当時としてはかなり高度な技術で築かれた総石垣の城だが、なぜ赤松広秀がそういう城を築けたのか。広秀は2万2000石の大名にすぎず、自分だけの力でこれほどの城を築けたはずがない。この城はたんに一大名の居城にはとどまらなかった。豊臣政権として、生野銀山を押さえるとともに、大坂城を守るための城で、すなわち秀吉の意向があったから、立派な城が築かれたのである。
そして、豊臣政権下で築かれた状態がそのままいまに伝えられている。というのも、赤松広秀は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に属し、その後、東軍に協力したものの、鳥取城を攻めた際に、城下町に大火を招いてしまった。徳川家康はこの責任を問うて広秀に切腹を命じ、その後、竹田城は廃城になってしまった。
廃城になった城は、破城といって破壊の対象になることが多い。竹田城も徳川幕府によって建物は取り壊されたが、石垣の破城は免れ、地震などの被害にも遭わなかったので、豊臣時代の壮大な石垣が、現在まで良好な状態で残っている。秀長が直接手がけた遺構は、あまりないとしても、豊臣時代の城が真空パックのような状態でいまに伝えられているという点で、きわめて貴重な城である。
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